種入りのマーマレードはパパの味

 
  ノーワックスの夏みかんが手に入ったのでマーマレードを作ってみました。
10年ほど前までは庭の隅に、夏みかんの木があり、毎年2月になると、数十個の実が収穫でき、
そのうち10個ほどをマーマレードに加工していました。
 しかし木があまりにも大きくなり過ぎ、隣家にも迷惑をかけるようになったので、止む無く伐採しました。
それ以来、夏ミカン(ノーワックスのもの)が手に入らなくなり、マーマレード作りはいつのまに忘れてしまいました。
 最近、近所にJAの即売所ができ、先日買い物に行ったところ、地元の夏みかん(ノーワックス)が手にはいりました。さっそく、マーマレードを作ってみました。

新鮮な夏みかん4ヶ入りの袋。(一袋160円、JA田奈「めぐみの里」にて)
画像


実と皮を切り分けました。
画像


実は袋の上に包丁を入れて、実を取り出します。
画像


全てのみかんの袋から実を取り出し、皮(もちろん皮も大事な素材です。捨ててはいけません、全部使いきります。)は薄くスライスしました。むろん、袋と種は捨てます。
画像


鍋に入れました。ミカンの皮と実の重さと同量、今回はミカン4個分約600Gですから、砂糖600Gを入れて混ぜあわせました。
私はやや苦味の風味あるマ-マレードが好きなので、皮はアクヌキせず、そのまま煮てしまいます。お子さんがいる家庭や、苦味の苦手な方は、煮る前に、皮だけ、1ないし2度、沸騰した湯に20秒ほど入れてアクヌキをするとよいでしょう。
画像


中火で約10分、煮たところです。砂糖の浸透圧で、実の細胞が壊れ、水分がいっぱいでてきました。その水分が沸騰して、ブクブク気泡となって出てきます。
画像


更に、ヘラで時々かき混ぜながら、約30分、煮詰めました。水分もだいぶ少なくなってきました。それにあわせて全体に透明になってきて、粘りもでてきました。
画像


全体に粘りがでてきたら、出来上がり。そのまま自然に冷めるのを待ちます。
一部を取り出してみました。おいしくできました。夏みかんの実と、皮、砂糖だけからなるマ-マレードです。
画像



500G入りの瓶、一つが一杯に、もう一つが七分目の量になりました。前者は、煮沸して、冷やしてから冷凍庫で保存、4月ころから食べ始めます。
 トーストにのせるとおいしい。またプレーンヨーグルトといっしょに食べても美味です。

             種入りのマーマレードはパパの味

自家製のマーマレードには、取り忘れた種がときおり入っています。これも自家製ならでは思っています。
画像




ハワイ四島々巡り (2007)

2007/3/10~18 ハワイ四島々巡り


画像


 ハワイ諸島は南国の楽園、フラダンスで有名ですが、小生にとっては、やはり大陸移動説の大きな拠り所になった地として一度は行ってみたいなと思っていました。
 キラウエア火山のあるビッグアイランド、ハワイ島から、マウイ島、アオフ島、アウアイ島と南東から北西にかけて、順順に年老いて古くなっていき、活動も穏やかになっていき、標高も低くなっていく生い立ち。学生時代、その地球科学的研究成果には胸をときめかせました。
 今回のツアーは、それらの島々を船で巡るという、地球科学を学んだ者にとってはまたと無いよい機会になりました。
 私にとって、収穫は計り知れない旅行になりました。


ハワイ諸島は下図のように、北西の方向にいくに従い、形成年代が古くなる傾向にあります。ハワイ島は生まれたての島です。
画像




日程  3/10     オアフ島(ホノルル)
       ↓
     3/11     ハワイ島(ヒロ)
       ↓
     3/12~13  マウイ島(カフルイ)
       ↓
     3/14      航行
       ↓      
     3/15~16  カウアイ島(ナウィリウィリ)
       ↓
     3/17     オアフ島(ホノルル)



画像



画像
クルーズ船 PRIDE OF AMERICA, 総トン数 約80,000 ton
このクルーズは、カジュアル・クルーズと銘打っており、ドレスコードは一切なし。全ての行動は、カジュアル、ラフなスタイルで過ごせるので気楽である。



3月10日(土) 出発日

成田発ホノルル行きは夜8時過ぎ出発予定(JALウエイズ)。成田集合が、午後5時55分。
 多摩プラーザ発15時55分、成田空港行きリムジンバスに乗る。途中渋滞もなく、1735分着。さっそく旅行バッグのチェック、預ける。空港は久しぶりに来た。相変わらず老若男女で賑わっている。妻は国際用のケイタイの手続き(チップ交換)にドコモの窓口へ。簡単にすんだとのこと。
 今回のツアーの添乗は香山さん。若いがしっかりした方である。午後8時発の便、ハワイとの時差は19時間あるので、ホノルル着は、同日(3/10)の午前7時ころの予定。
 飛行機は定刻発。夜間飛行、うつらうつらの十数時間であった。 

3月10日(土) ホノルル 着

 午前7時過ぎホノルル空港着。入国手続き、旅行バックを受け取り、バスに乗り込む。 港に行く前に、プチ観光。バスで小一時間、景勝地のひとつヌアルパリへ。絶壁の地にあるのだが、霧で眺望はきかない。谷底から吹き上げる風はハワイとは思えない肌寒さ。

※コオラウ山脈の途中にある断崖の上の展望台。ほぼ垂直に切り立った崖の高さはおよそ900m。天気の良い日は、カイルア方面からノースショア方面を一望できる絶好のポイント。海から吹く強風も有名で、まっすぐに歩けないこともある。
 1795年にハワイ島から上陸したカメハメハ大王の軍隊はこの地でオアフ軍を撃破、ハワイ諸島の統一を成し遂げた歴史的な場所でもある。
       
画像
ヌアルパリ 晴れていればこのような展望とのこと

寒いのと視界不良でで早々にバスへ。もと来た道をホノルルの中心地へ戻る。途中、ホノルルの高層ホテル群、ダイアモンドヘッドが遠くに見えた。
市街地へ入り、市庁舎、カメハメハ大王像を見学後、いよいよツアー船(プライド オブ アメリカ号:POA)が停泊しているホノルル港へ。午前10時ころ、アロハタワーが間近の岸壁に到着。
 POAは8万トン。さすがに大きい。旅行ケースに部屋番号(7616)が記されているタグをつけて受付に預ける。
画像
カメハメハ大王像

画像
アロハタワー

乗り込む前にも、厳重な手荷物、ボディー検査を受ける。
 いよいよタラップを渡り乗船。乗務員が笑顔で迎えてくれる。
 私達の団体は総勢24名。エレベータを使い、各自の部屋へ。 

私達夫婦の部屋は7F.大きな角窓があり外光が入るが、窓の外にライフボートが置かれているため、外の景色はは一部しか見えない。(旅行契約時に了解済)。その分、料金は安くなっている。外の景色を見たいときは、デッキに出ればいいこと。
 部屋の広さは8帖ほど。廊下から(カードを使って開錠する)入るとすぐ左手にトイレ、シャワー、洗面所)。右手に衣服等を入れるロッカー(幅120cmほど)、さらに進むと部屋中央左に壁に接してシングルベッドが並ぶ。奥には120cmはばのソファー、60cmほどのライティングデスク。冷蔵庫、TVがある。広さについては広いにこしたことはないが、私達にとって必要にして十分な広さである。これから1週間、この部屋で生活する。
画像



 午後3時過ぎより、日本人スタッフによる安全講習。ライフジャケットの使い方を教わる。会場は、「ダイアモンドヘッド」とよばれる11ないし13Fにある。

  キャビン(船室)Noは、若くなれば船首方向、大きくなれば船尾方向に向かっているとのこと。その後、香山さんから今日、明日の予定の確認があった。
 また、以下のような説明があった。

 ① パスポートはキャビンの金庫に入れる
 ② 今日、明日の食事は、不慣れなので、みな一緒にとる。(食事場所:リバティー、6F)
 ③ このガイダンスの後、船会社側から避難訓練が実施される。私達の一行は、万一の場合、K1(6F,キャディ  ラック)に集合と告げられる。
 ④ 各船室のドア左上に、ツーリストから、日本語による案内が掲示される。
 ⑤ 明日の行動予定が告げられる。
     →ハワイ島火山国立公園へ。
    午前8時30分出発(貸切バス)、14時ころ帰船。 しっかりとした防寒対策をすること。(標高4000M近い)
 ⑥ 今日の夕食は、5F,スカイレストラン にて。18~。
 ⑦ 明日の朝食は各自でとる。(アロハカフェは、5:30より利用可。ビュッフェ方式。)

アロハカフェ
画像


 ⑧ モーニングコールは、各部屋の電話にセット可能。
 ⑨ ドアー左上のカラーサインは、各色がある。(場合に応じて利用する。EX. 赤→入室不可)
   赤の裏は黄色。その色にしておけば、毎日部屋の掃除、ベッドメィキング等をしてくれる。

今夜の夕食の会場は、6F、リバティー。この船には軽食を含めて食事できる場所(レストラン)は、10以上あるが、そのうちチャージを必要とするものと、必要のないところ(フリー)がある。前者は予約制。後者は一部、予約が必要(リトル・イタリー)である。
 リバティーはノーチャージで、受付順に対応するレストラン。数百人は入れるおおきなダイニングルーム。
日本語のメニューもおいてあり入りやすい。前菜、サラダ、主采等、一応コースになっている。
 今日は、スープとマグロの照り焼き、サラダ、パンにした。味はやはりアメリカ、全てに大味。
 18時前にレストランの受付前に集まったが、席につくまでかなり時間がかかった。20数名がそれぞれに注文し、食するから、退席するまで約2時間ほどかかっただろうか。こちらでは、2~3時間かけるのはふつうだそうだ。
 船はすでにホノルルの岸壁を離れ、最初の寄港地、ハワイ島ヒロに向かっている。

 昨日、夜の成田を出発して、機内で短い夜を過ごし、ホノルル到着後、朝からのバスツアー、そして乗船、避難訓練、夕食と行事(?)が続いた。
 ホノルル出航時は夕食時と重なり、デッキでの出航見学はできなかった。

明日のビッグアイランド、ハワイ島火山国立公園見学の準備を簡単にすませ、シャワーを浴びベッドへ。マウイ島からハワイ島へは距離があるので、沖合いに出た船は、結構、エンジン音が高い。しかし船体がおおきいせいか揺れはない。
 この船はノルウエーの船会社がハワイ島巡りを中心に運航しているらしい。この島巡りは他に、「プライド・オブ・ハワイ」、「プライド・オブ・ホノルル」がある。いずれも乗客は圧倒的に米国人が多い。男女とも体が大きい。そして年配者が主。障害のある方も旅を楽しんでいる。また、春休みか、家族連れもちらほら。私達の団体も大半がリタイア組。私よりも年上の方が多い感じ。皆元気だ。


クルーズ船 プライド オブ アメリカ の概要

  3Fにフロント、、店、図書室等がある。4Fがなく、5Fから上がキャビン、レストラン、ホール、プール、デッキ、ジムなどがある。
 私達の部屋は7F、部屋の出入りは磁気式のカードによる。各種の支払いの清算、オプションツアーの支払い、船への乗・下船のチャックもそのカードで行われる。
 食事は前にも記したが、チャージ不要のところは無料。(むろん、ツアー料金に含まれている)
 朝食はビュフェ方式の6Fにあるアロハカフェを利用した。
 昼食もよくそこを使ったが、他に「キャデラック」(主にハンバーガー、ポテトフライ等)も使った。
 夕食は1、2回のアロハカフェとレストラン「リバティ」、「リトルイタリー」、「スカイライン」などを使った。やはりアロハカフェがもっとも気軽に使えた。厨房のスタッフも人なつこく楽しかった。
 船内は空調がきいている。しかし強い冷房である。この温度はFATな米国人向けだろう。われわれにはきつすぎる。彼らは短パン、半そでだが、小生は長袖、スラックスで過ごした。
 船内はフロアごとにハウスキーパーがおり、私達の部屋は、フィリピン人の女性、エミーさんだ。いつも丁寧に部屋を清掃、整えてもらった。この人たち以外も含めて、サービスチャージを10$/日をチップとして自動的に清算されていくしくみ。

3月11日(日)  ハワイ島ヒロ、 ハワイ国立火山公園


画像


 朝6:30にモーニングコール。7:00アロハカフェで朝食。バナナ1本を昼食用にいただく。
 今日は念願のハワイ国立火山公園(ハワイ・キラウエア火山)見学。(昨日、OPツアーに申し込んでおいた。)
キラウエア火山は、文字通りの活火山で、かつ活動は穏やか(玄武岩質マグマ)なので、噴火現場間近まで近づける。
 現在の火口は不活発で溶岩が煮えたぎるようすは見ることはできないが、雰囲気は感じ取ることができるはず。
 キラウエア火山は、標高1000m前後で、周囲にあるハワイ島の主火山、アマウナロア、マウナケア等の4000m級に比して低く、それらの主火山の側火山的な関係にあるらしい。その火口と、今晩、海から見る溶岩流(船から)が見ものである。
画像
キラウエア火山。頂上から麓にかけて太い黒い筋状のものが見えるが、最近、流れ下った溶岩流である。


 天候はあいにくの曇り。雨がないのをよしとすべきか。ハワイ諸島は今の時期、雨季らしい。
 ヒロの港から直接カh-ターバスで現地へ。出発は午前9:00.
 船から降りてバスにに乗るには、乗船カード(写真のデータも入っているらしい)と、パスポート(現物は失くすとこまるのでコピー)は必携。その他に水・防寒具をデイパックに入れた。
 乗船カードのチェックは船の出口で行う。どこの港でも、岸壁の前には巨大な倉庫のようガランとした建物があり、その中を通って、バスの駐車場に向かう。
 下船時はその建物内は通るだけだが、帰船時はその中で、荷物検査、金属検査等を受ける。
 ツアーのガイドは、今日も日系(?)のベ元気のいいベテランおばさん。この島の諸事情に明るく、べらべらと達者な日本語でガイドしてくれる。
 この島にも高速道路があり、そこを経由して火山国立公園への道を辿る。高速道路は日曜のせいか、往来する車が多い。公園への道に入るとさすがに車の数は少ない。
 火山公園への道は斜面に対してほぼ直登の道である。キラウエア火山は楯状火山ゆえ、すそ野は緩やかな斜面となっており、自動車道はその斜面の最短距離をゆく。約50分で火山公園入り口に達する。

画像


キラウエア火山国立公園
  
  予備知識を持たずに見学したが、クレーター(直径は4kほどのカルデラ)に添って車道があり、一角に展望台がある。その場所には博物館(ジャガーミュージアム)が併設されている(無料)。その展望台からは火口が一望できる。絶景である。
 クレーター内のあちこちには水蒸気・白煙が上がっている。クレーター内は全体が起伏に乏しくのっぺりしておち、溶岩が静かに冷え固まったようすを伺わせる。表面は真っ黒くはなく、鈍い銀色を呈している。

 
画像


<ハレマウマウ火口> 直径約1k。

 ハレマウマウ火口はキラウエアクレアーター(カルデラ)の中にぽっかりあいた火口で、この火口には火の神”ペレ”が住んでいるという。ハワイの人たちには神聖な場所である。
ハレマウマウ火口の駐車場から10分ほど歩くと、火口の縁のすぐ近くに至る。神への畏敬へか花が飾ってある。この火口を巡る見学コースは、舗装されておらず、砂利と岩、そのままの道。イオウや湯気があちこちから立ち上っている。蒸気が噴出しているところに手をやると熱い。ゆで卵ができそう。
火口の先端には柵が設置されており、そこから先は侵入禁止。(火口に落ちてしまうから)
 クラーター周回道から少しはずれたところに(サーストン)ラバチューブがある。いわゆる溶岩トンネルで、入り口はシダなどの熱帯植物が生い茂っている。このトンネルは溶岩が流れ下った後に形成されたという。
 このラバチューブはハワイ島屈指規模らしい。溶岩が麓へ流れ下るときにこのトンネル内を流れたらしく、その後、溶岩が冷えて空洞ができた。
 トンネルの終点は、麓の方まで続いているらしいが、金網が張ってあり、立ち入り禁止となっている。但し、自己責任のもと、トンネル内を下ることは可能らしい。アメリカらしい規則だ。


 トンネルの径はは7~8mはあろうか、中の道(?)にはあちこちに水溜りがあり、注意しながら歩く。トンネル内は照明があり、安全に歩くことができる。入り口から出口まで歩いて2~3分ほど。トンネルを出ると再びシダ類が生い茂り、元の駐車場のへ戻ることができる。
  
0

箱根十国峠~二宮吾妻山(14/1/24,25)

箱根十国峠~二宮吾妻山(14/1/24,25)

 冬の最中ですが、日溜りハイクと温泉(一泊)の小旅行をしました。二日とも西の風が強いものの、うす曇でまずまずのハイク日和でした。

1/24(金)
 青葉台、中央林間、相模大野、小田原、熱海と鉄道を乗り継ぎ、熱海発箱根行きのバスに乗り、十国峠ケーブカー乗り場で下車、さっそくケーブルで峠頂上へ。体ごと吹き飛ばされそうな強風。
 駅舎のなかで、熱海駅で買ってきた駅弁(こゆるぎ弁当)を食べる。

味・ボリュームとも秀逸の熱海駅駅弁(こゆるぎ弁当)
画像

人気商品だけあって、味・ボリュームともに満足。つめたくてもこんなに美味しい駅弁はめったにないと思う。全国レベルのお弁当←むろん私見。100点満点の弁当、@980円)

 午後12時半ころ、峠から来宮駅への道を下り始める。

画像


画像

画像


十国峠ケーブル 頂上駅周辺です。草地が広がっていて開放感があります。
画像


頂上からの尾根道。来宮に向けて南下。目の前に相模湾が広がります。
画像


この尾根筋の道は遠く鎌倉時代から使われていたようです。道筋には石仏が置かれていました。
画像


遠く熱海市街を望む
画像


アオキの実が色づいてきれいでした。
画像


熱海市西山町まで下りてきました。白梅が美しい。
画像


西山町には、斜面に立派な日本家屋、家並みが続きます。ふだんの買い物等は不便そうですが、見晴らし、静寂さは抜群です。
画像


歌人佐々木信綱の旧居です。
画像


赤いポストが現役です。
画像


町のあちこちに源泉があるようです。
画像


来宮神社の下に出てきました。
画像


東海道線の下、年代を感じるトンネルです。丹那トンネルが完成時(1923ころ)に造ったもの思われます。
画像


二宮駅でホテルからの送迎バスにのって宿へ。
宿は熱海から伊豆スカイラインへ通ずる途中にあります。部屋、食事(私たちの場合は和・洋・中のバイキング。全て味はよい。)、眺望いずれもすばらしく、一泊7300円と格安。大満足の宿でした。(熱海・森の温泉ホテル)。また泊まりたいですね。
画像
男性用露天風呂。目の前は山。

部屋(洋室、白壁のシンプルな室内)
画像



1/25 (土)

 朝10時の宿の送迎バスで熱海駅に送ってもらう。JRで二宮まで行き、駅前にある吾妻山の菜の花を見てきました。頂上付近には早咲きの菜の花が満開。富士山を背景にすばらしい景色が広がりました。
画像


画像


菜の花の前には人がいっぱい。富士山とのコラボを楽しんでいるようです。
画像

花は8分咲き?
画像







 
0

小笠原諸島紀行・2004

小笠原諸島(父島)紀行   2004年5月1日~5月6日

画像


5月1日

 午前10時、小笠原丸,定刻に竹芝を出航。ベイブリッジをくぐり進路を南に。コーヒー色の東京湾も、房総半島を過ぎる頃には、本来の色に。傍らを貨物船やLNG船、潜水艦、ホーバークラフト等、東京湾内はまるで船の展覧会のよう。

画像


所属する会のメンバーは総勢22名。久ぶりにお会いする方もいらっしゃる。船底に近い部屋(25名定員)を借りきる。OさんとHさんがリーダーである。
 港を出てからデッキで眺める。風が心地よい。
デッキでH氏とお話。彼も定年を迎え、世界各地へ出かけている由。助言をいただいた。それは思い立ったら行かれるうちに出かけたほうがいいとのこと。エベレスト街道を薦められた。(往復20日間ほどかかるが)

13時過ぎ、外洋にでたのか少し揺れ始める。酔い止めをのんでおいた。
小笠原丸は6千トンの大きさだが、見た目は小さくやや心もとない。
22名は船室(広さ20畳ほど)にザコ寝する。

画像


 今回のツアーは、本会では最も長い6日間。小生も日程をやりくりしての参加。
定年を迎えたので今回参加できたこと、現役時代にはなかなかできなかったことであり、こういう機会をいただいたことに感謝したい。
 17時30分 三宅島沖(見えないが)に達しているもよう。
 上天気のなか、風はけっこう強いが船は快適に進む。
 気温は20度をゆうに越え、暖かい。黒潮本流の真只中だろうか、海水はラムネ色、透明感がある。船速は22ノット。船室で一眠りした。腹がすいた。カップヌードル(カレー味、200円)を食べる。おいしかった。

 17時55分 西に傾いた薄日が差す。波やや高く、デッキにしぶきがかかる。八丈島の近くを通過しているも、島影は確認できない。携帯も圏外になってしまった。乗客も船室にいるもの、デッキでゴザを敷いて、寝る、酒盛り、トランプと様々。

夕食は食堂で18時から。(むろん有料)。
定時オープンの食堂は長蛇の列。(今日の船には約800名の客が乗っているという)
食後、船室(大部屋、会が借り切っている)には会員が三々五々集まり宴会が始まる。
小生にとって違う世界を生きている会員の方々とのおしゃべりは楽しみの一つ。
皆それぞれの思いを持って生活している。(当たり前)。
午後9時近くなる。揺れはさっきより穏やかになってきた。夕日は曇り空のため見られず。同じ部屋にトランプも始まり賑やか。

 今回の会の活動への参加は、熊野古道以来3年ぶり。
この三月に定年退職、再任用として都教職員研修センターに勤めているが、現場にいたときより自分の時間が取れるようになり、有難い。

午後10時消灯。部屋の入り口、廊下を除いて暗くなる。ザコ寝に近いがむろん寝るスペースはある。毛布2枚の間に入って眠る。船は少し速度を落としたのかエンジン音は静か。揺れは少しあるも寝やすい。

5月2日 

朝、5時過ぎ目が覚めた。デッキに出ると既に日は昇っている。快晴。うろこ雲が空に浮かび、秋の空みたい。小生、周りがすべて海、船影もない海の航海は始めて。
地表の7割が海水に覆われていることを実感。海の色は、昨日と違ってエメラルドグリーンに変わっている。
 船は黒潮の本流を横断し、南海域に入ってきた。海も、空も、風も本州のそれとちょっと違う感じ。
画像


午前9時頃より、小笠原諸島の最北端の婿島諸島が見え始める。遠くからは一つの島に見えたが近づくといくつかの島々からなっていることが分かる。
画像



さらに30分後には父島が見え始める。
画像





午前10時20分過ぎ、父島二見港に接岸する。会の総勢22名全員元気。港に接する丘には枕状溶岩からなる崖が見える。港近辺の地形も火山地形の特徴を示している。
画像


画像



上陸後、宿の迎えの車で宿へ。さすが日差しも強い、気温も26,7度近いのでは。しかし湿度が低く爽やか。沖縄の風土に似ている気がする。

 宿(たつみ電話04998-2-2755)で荷物整理後、昼食に。宿の若だんなが港近くの食堂を紹介してくれた。食堂は数軒ある。
食事の内容は、「島すし」1000円。
さわらを醤油につけたすし。美味。会のメンバーは亀(あおうみかめ)の煮付けを試食した方もいる。小生は遠慮した。
お店の手伝いに中学生のお嬢さんが手伝っている。しっかりした娘さん。店の主人の人柄がしのばれる。

画像



 午後は夕食まで自由行動。小生は小笠原高校(表敬)訪問。二見港港背後の高台にある高校へ。職員室には主幹と若手の先生の二人がいらした。教頭さんが恐縮にもわざわざいらしていただけた。元気のよい方。

画像


画像



  早々に高校に暇をし、清瀬から釣り浜、宮之浜のハイキングコースへ。兄島との間にある海峡を見ながらのコース。きれいな海、うぐいすや他の小鳥がさえずり、日差しは強いがすがすがしい5月の風、クルーザー等が眼下の海を通る。
画像



宮之浜では水遊びのカップル。宿への帰りの道で都内から移り住んだご婦人と立ち話ができた。このすばらしい環境に惚れて移り住んだとのこと。年金で十分暮らしていけるとのこと。
画像


画像


画像


 16時30分、宿(たつみ館)着。さっそく風呂へ。(肝心の代えのパンツを忘れてしまった。明日コンビ二で買う。今日はひとまずそのまま)
  18時夕食。宿のおばさん(70近い)が質素だ地ものを中心としたおかずを用意してくれた。
おかずの内容は、しかく豆、八丈のさといも、あかめの味噌汁、かじきまぐろの刺身、同焼き物、パッションフルーツ。等。ビールもうまかった。

19時15分よりナイトツアー。忙しい。
小笠原ナイトツアー(@3000)
 夜の小笠原も見所が一杯です。
 夜の森ではほのかに緑に光るキノコ「グリーンペペ」や天然記念物に指定されている固有種の「オガサワラオオコウモリ」が飛ぶ姿も見られます。海辺では夜行性の生き物(陸ヤドカリ)に出会うことができます。
 グリーンペペ、オガサワラオオコウモリ、陸ヤドカリ、等の観察をする。

画像
グリーンペペ

画像
陸ヤドカリ

画像
オガサワラオオコウモリ

 十二夜の月明かりの元,車の故障があったが、親切なガイド氏で、夜10時近くまでツアーが続いた。少々くたびれた。
  月明かりのため、快晴ではあるが星空観測は明るい星のみ。金星が大変明るい。
北斗七星から探した北極性はさすが低く、北の地平線のちょっと上にある感じ。こんな低い北極星を見たのは初めて。月の近くにありながら白鳥座のデネブがよく見えた。
22時すぎ就寝。

5月3日( 快晴 )

今日は各種の野外観察。
ガイド氏によると海岸、植物、ツツジヶ岳登山を予定しているとのこと。小笠原固有のツツジが一株あり、そのために特別保護区域を設けているという。
海岸では昨晩夜間観察で陸貝等の観察海岸。海岸で容易に見つけられるめのうを採取。
画像


また漂流物(小さい物)を採取。最も多いにはプラスチック類。それもペレットが多い。魚類がこれをえさと間違えて飲み込むという。
 ペレットの化学物資が魚体中に溶けだして結局は人の体に入ってくるのではという。
 私が驚いたのは何故、ペレットの形で漂流してくるかとの疑問。ガイド氏によると廃棄物ではないかという。
画像



 小港湾では見事な枕状溶岩を見ることができた。るいるいとした径数十cmから1,2mのものが積み重なっている。波の侵食によって玄武岩質の皮に覆われている部分が洗われ、枕状溶岩の内部がよく表れている。その一部には海岸で観察されためのうのかけらが見える。
画像


画像
小港湾全景

 父島南西部に位置するツツジ山(300M弱)は亜熱帯の山である。麓は開発で外来種の植物も分布しているが中腹以上は亜熱帯特有の植生になっている。
  山体は角レキ岩を主体とした火山岩。とことどころ尖塔状の岩体があちこちに見られる。頂上はむろん途中の道も海岸、太平洋が見渡せ気持ちのよいハイクができた。
画像


頂上には固有種のツツジ(ムニンツツジ 白)が満開。何本か接木して増やしているところという。
まる一日よく晴れて快適な一日であった。
画像


なおツツジ山周辺は、将来、空港が予定されているとのこと。特別天然記念物の植生地域であるためどうなるかとのこと。(後になって、空港建設は中止になった)


夕食後、今日の行動の情報交換で別の班の宿泊所へ。小生も小笠原諸島が大洋の孤島である生い立ちについて説明を求められた。

(参考)
※小笠原諸島の形成
 形成開始当初の小笠原群島は、現在のニューギニア付近の赤道直下にあったと火山島群と推定されている。その後フィリピン海プレートに乗って少しずつ北西方向へと移動をしていった。そして群島は約3000万年前からは北西から北東方向へと移動方向が変わり、現在の位置に到達したらしい。

 帰りの道の途中にある大木を利用した居酒屋でビールを飲む。よく冷えていてうまかった。10時半就寝。
 本州は発達した低気圧のため、大荒れ。それに比して父島は青空。本州の天気が大陸や海洋、ヒマラヤ山系に影響をうけ、中緯度のものであることを実感した。
 明日は今日は鯨観察。たのしみ。

5月4日( 快晴 )

 穏やかな南の風、好条件(本州は発達した低気圧の影響で全国的に大荒れ。東京も風速20Mを越したとのこと)
朝9時、二見港からクルーザー、ピンクドルフィン号(30人乗)に乗る。船長(出身はハワイとのこと)以下2名。船はジェット推進の高速船。
画像


そのまま沖合いに出ると幸運にも親子の鯨(ザトウクジラ)に出会う。
子どもクジラがが海面上に飛びはねたり、尻尾を出して深くもぐったり、30分近く彼らの近くで観察できた。
クジラ観察はわが艇の他5,6隻が近くで見守っている。クジラはやはりそれらの船から遠ざかるような動きをする。船団はクジラを追う動きになる。
もぐった後、次の浮上はどのへんだろうか、全員で息を潜めてあちこちの海面を見やる。
 浮上して水を吹いたり、背中を水面上に出したり、飛びはねたりすれば、見物人からはどよめきや拍手が出る。愉快だ。
 小笠原のクジラはその多くがすでに北の海に戻り始めており、そろそろ最後の仲間であろうとのこと。子連れのクジラは、北へ帰る体力をつけるために最後になるという。
画像


 その後父島南島に向かう。途中イルカ数頭に出あう。海に入って彼らの近くで泳ぐ会員もいる。クジラ、イルカと早々に観察でき、運がいい。

その後南島上陸。大潮のため、入り江の入り口はせまく、船長は波のようすを見計らって、エンジンをフルスロットルにしてダッシュ。無事入り江に入る。はしごを岩に渡し、島へ上陸。 
画像


 南島は父島の南にある小さな島。しかし、風景はさんご礁の砂、海蝕洞、外の海から見えるの単調な風景とは違う、美しい風景が広がる。

画像


この状態を保とうとi石原都知事も規制を強くする意向とのこと。
 砂浜に行く途中には数千年前の絶滅種の無数貝が砂に埋もれている。
 海蝕洞の前の入り江で水に入るがまだ水温は低く、長くは入ってはいられない。

 南島を後に、兄島へ向かう。もとクジラ解体場があった浜辺に上陸。ピンクドルフィンが用意してくれたパンの昼食。のんびりとした一時をすごす。
 昼食後兄島前の浅瀬でボートから水中観察。えさ籠を水中に下ろし、寄ってくる魚をボートの底のガラス窓から眺める。
うみへびらしきものもたくさん集まり興味深い。

午後も3時を回り、ひょうたん島等を経由、帰りへ。
 船長がクジラを見つけ、今日2度め。午前とは個体が違うとのこと。30分近く観察。2頭そろって尾ひれを見せ潜っていった。尾ひれを高く上げてもぐる時は深くもぐるのだという。
 皆おおいに満足したようすで帰島。船足は速く、船首部に陣取り、気持ちのよい風を受けながら二見港へ。

 夕食はしま寿司。おいしくて二人分はあろう量、宿の人の心遣いがうれしい。そして宿特製のアオウミ亀の煮付けも美味。加えるに昨日のツツジ山トレッキングの帰りに摘んできたわらびもやわらしく美味だった。

5月5日 ( 快晴 )

 朝食後荷物を一部屋にまとめて、小港湾へ海水浴へ。宿の若旦那が車で送ってくれた。よく世話をやいていただき頭が下がる。
 海岸は二日めに野外観察ハイクで寄ったサンゴからなる美しい遠浅の海岸。本州の関東の海を普段見なれているものとっては、別天地。
  88時半ころ現地についたが、人は誰もいない。まるで会専用のプライベートビーチのよう。水は少し冷たいが5月早々に海水浴。
 隣のビーチ(コペペ)につながる磯を歩きながらサンゴやうに、イソギンチャク、ナマコ等、総天然色の生物を見る。

画像


 10時35分の村営バスで宿へ戻る。外の水道で体を洗う。
宿のおばさん、若旦那に礼を言い、昼前、二見港港へ向かう。
 昼食、買い物後、おがさわら丸に乗船。大勢の見送り(宿のおばさん、若旦那も見送りにきてくれた)と南国おどりに送られ、満員の乗客を乗せて定時出航(午後2時)。

 出航後、港の外まで、10隻近いレジャー船(ピンクドルフィンも含む)が、おがさわら丸に伴走して見送ってくれた。実に壮観な歓送風景。生涯忘れない光景だ。
 その最中に見送り船の向こう(兄島側)にクジラが一頭、汐を吹いた。まことに印象深い。
画像


画像


  船室(来たときと同じD2部屋)で昼寝。やや狭いが会貸しきりの部屋なので気兼ねがなくよい。
午後6時過ぎ、日没。水平線低くに雲があるため、あいまいな日没。
 夕食はコンビにで買ったおにぎりとカップそばですます。シャワー(快適)を浴び、船室に。

22時消灯まで、飲み助は残りのコニャック、ウイスキーで懇親。一方ではトランプ。消灯後就寝。翌朝になって前線の影響か揺れだす。うつらうつらながらも寝られた。

5月6日

  揺れは相変わらず強い。昼近くまで横になっていた。酔い止めを飲んでいたので、少し気持ち悪くなった程度ですんだ。
 昼近くシャワーを浴びさっぱりした。

 今回の会主催による小笠原紀行は、小生にとっても大変貴重な機会であった。
定年後、初の長期旅行。気持ちを切り替えるきっかけともなった他、気心知れた方々とともに、人の手があまり加わっていない小笠原の大自然のなかに久しぶりに身をおき、開放感と爽快感を十二分に味わうことができた。
 島の観光客をもてなす態度、島の方々の素朴な生活にも思うところがある。小笠原高校への訪問も興味深かった。

 今後、島のあり方を巡って、開発か保護か当然考えが分かれるだろうが、石原都知事は当面保護に力を入れるという。延々、一日かけて辿り着く地があってもよいと思う。
 今の交通事情から来島できる人は限られているので、その考えでは大筋ではよいと思う。東洋のガラパゴスはおおげさではあるが、やはり固有種が数多く残っているこの島の自然は今の時代となっては貴重である。
 弱い北東の風曇り空、時折薄日が差す肌寒い東京港に戻る。
 予定より10分早く午後3時20分、竹芝桟橋着。会員、全員無事。
 3時10分、D2船室で最後のミーティング。
 会の皆さん、大変お世話になりました。御礼申し上げます。
0

金目鯛の煮付け

2014.1.18 金目鯛の煮つけを作ってみました。

 魚屋さんに殻つきの牡蠣を買いに行きましたがあいにくなかった。代わりに金目鯛のいいのがあったので買い求めた。
 北海道産で解凍したものですが新鮮で、油ものっていそう。大きなもので、半身を三つ(頭つき)に切って売っています。980円。
 味をつけたツユ(酒大匙3杯、みりん大匙2杯、水カップ1/3)に浸して圧力鍋で煮付ける。高圧になったら弱火にして15分。火を止めて圧力が下がるのを待つ。
 できあがりは下の写真、おいしくできました。


画像





0

2014新春・谷中七福神めぐり

2014新春・谷中七福神めぐり

2014/1/13(月・成人の日)

 珍しく七福神めぐりに行ってきました。所属する野外活動の会の主催。
 七福神は全国各地にありますが、今回のは、東京・谷中七福神。江戸時代から庶民に親しまれてきた由緒ある(?)行事です。
 天気晴朗なれど波高しではありませんが、冷たい北風に晒されました。しかし、歩き終わりましたら清々しい気分になりました。歩数は14753歩、歩いた距離は7.9Kでした。

画像

 集合はJR田端駅北口 午前11時。

画像

会員諸氏は冷たい風を避けて、駅気ビル構内に三々五々集まり始めました。

画像
午前11時、最初のお寺、東覚寺(福禄寿)に向け出発。田端駅周辺は東京の台地の縁に位置しています。台地の切り通し(?)を南下します。

画像
最初のお寺さん、東覚寺です。体の悪い箇所にこの赤札で擦ってお参りすると治るとの言い伝え。私もボケ防止にこの赤紙で頭を擦っておきました。
 実は後で知ったのですが、この赤紙を剥ぎ取ると、仁王様の石造が出てくるそうです。門前にある仁王尊の石像は、赤い紙をベタベタと貼られた姿なので、赤紙仁王とも呼ばれているそうな。

画像
赤紙がベタベタ体全体に貼られている赤紙仁王

 
画像
赤紙を剥がすと顔が出てくるようです。(インターネットより)


画像
なぜか境内にはたくさんの新しいワラジがつり下げられていました。
 ワラジがたくさんかかっている訳もわかりました。赤紙仁王さんが治療にあちこちに出かけていくので、たくさんの草履を必要としたとか。


画像
2番目のお寺さん(青雲寺:恵比寿)の境内にて。梅かと思いましたら桜だそうです。

画像
青雲寺の境内には、滝沢馬琴の筆塚の碑がありました。

画像
谷中七福神、三番目のお寺、修性院(布袋尊)。塀にはかわいい布袋尊のイアラストが描かれていました。この寺の周囲は、江戸時代、「日ぐらしの里」と呼ばれていたという。

画像
富士山がみえるかどうかは確認できませんでした。

画像
谷中商店街にやってきました。狭い路地の両側には飲食店、雑貨屋、みやげ物屋なとが所狭しと並んで賑わっていました。ここで各自昼食。店内で食べる方もいましたが、私は焼きオニギリとジャガイモのフライ、イアカのゲソ揚げを買って、道路脇で食べました。

画像
商店街の外れに延命尊がありました。

画像
谷中商店街にある招き猫屋のたい焼き(?)。

画像
谷中墓地の中を通り抜けました。広い立派なお墓が並んでいます。

画像
墓地に隣接して建っている木造家屋。このような家も最近、見かけなくなりました。

画像
谷中霊園に隣接する七福神、4番目のお寺、天王寺(毘沙門天)。境内の雪つりが美しい。

画像
幸田露伴の作品に出てくる五重塔(跡)


画像
スカイツリーと雪ツリ(谷中霊園から)霊園が高台にあることがわかります。

画像
護国院(大黒天)

画像
同上

画像
森鴎外の居住跡にはホテルが建っています。温泉が湧くようです。

画像
不忍池にやってきました。池は高層ビルに囲まれています。

画像
谷中七福神のトリは、不忍池にある弁天堂(弁財天)です。昔は、岸辺から船で渡っていたそうです。

画像
弁天堂から上野公園(動物園)方面を望む。

画像
上野公園入り口では、昔からの絵描きさんいて、お客さんの似顔絵を描いていました。

画像
上野駅前通り。自動車の行き交うにぎやかな通り。(解散)

谷中七福神川柳巡り

「七福神あたりめーだよ谷中だよー」 江戸時代七福神といえば谷中

●「七福神まずは年始の詞から」 田端駅北口集合、幹事さんの挨拶

●「空っ風七福神も首すくめ」 当日は快晴なれど空っ風が頬を刺す

●「七福神猫にも福の日向ぼこ」 長安寺の縁台で日向ぼこの猫

●「七福神そっぽを向いて梅見かな」 途中谷中の墓地を通り抜ける。梅が満開。七福神どころではない

●「七福神願掛け喰い掛け水を掛け」 七福神巡りも掛けごとだらけ

●「願賭けも七つになると手に余り」 そんなに沢山願はない

●「願掛けは三つ目以降は以下同文」

●「七福神谷中の墓地も風趣添え」

●「七福神おまけもあったロバの耳」巡りも終盤、上野動物園の裏手で

●「七福神八つ目の福はビアホール」

無事終了。


0

廣澤虎造50回忌「虎造節」名人大会

廣澤虎造50回忌、虎造節名人大会  

昭和20年代から30年代前半、ラジオを通して浪曲がよく流れていました。祖父が、夕食後のひと時、じっと耳を傾けていたのを覚えています。確か祖父のお気に入りは寿々木米若で、オハコの佐渡情話を好んでいたようです。私は子ども心に廣澤虎造のあのうなり節が好きでした。
 その後虎造節は、代々引き継がれてきたようです。ネットで上記の会を知り、聴きに行ってきました。

    日時 2013/12/25 午後1時~5時
    会場 浅草木馬亭

    演目

      廣澤 虎春 「勝五郎の義心」

       廣澤 虎二 「追分三五郎」

       廣澤虎若  「吉良の仁吉」

廣澤虎康  「清水の三下奴」



特別出演 山田二郎(虎造次男 元TBSアナウンサー)

画像
浅草木馬亭 正面入り口

画像
出演者一同

画像


画像
浅草寺五重塔とスカイツリー

画像
浅草寺境内

画像
浅草寺本殿

画像


画像
仲見世からスカイツリー

画像
夜のとばりも下り始め。

画像
スカイツリーも輝き始めました。

画像
浅草界隈もクリスマス一色
0

読売日本交響楽団定演(みなとみらいホール)

2013年のしめくりくりとして、第九を聴きに行きました。会場は横浜みなとみらいホール。演奏は読売日本交響楽団です。
画像
 席は3階です。(来年4月からはこの席になります)
 この曲を生演奏で聴くのは初めてです。一楽章のイントロは、大変凝っていて素晴らしいですね。最終楽章に向けて奏者全員で盛り上げていく構成も圧巻。読響の演奏は、合唱(新国立劇場合唱団)をおおいに盛り立ててくれ感動しました。


画像

 演奏会後はいつもの散歩。今日の帆船日本丸は、マストに各国の国旗がはためいていました。

画像
いつもこの船の端正な姿には感心させられます。

画像


画像
大桟橋には飛鳥Ⅱが停泊していました。いつかこれに乗ってた旅したいですね。

画像
関内駅近くにあるゆきつけの飲み屋さんです。生ビールがおいしい。スタッフもよい人たちです。店内のようすです。アットホームな店です。

画像
店内のようす。アットホームな店です。


0

富士山めぐりバス旅行

2013/12/01(日) 元職場のOB・OGからなる会が主催する年1回の親睦旅行に参加しました。十年ぶりの参加です。今年は、富士山周遊のバス旅行です。東京大田区の蒲田が集合・解散地です。参加のみなさんと久しぶりに旧交を温めました。

画像
見学地(1) 笹一酒造(山梨県大月市) 新酒ができたお知らせ(緑の杉玉)が吊るしてありました。

画像
笹一酒造の名物案内人、志村健さんです。衣装といい、名前といい、大変ユニークで愉快な案内をしていただきました。埼玉県から通勤しているとのこと。

画像
醸造所の内部

画像
忍野八海にて 湧水と富士山が見事でした。

画像


画像


画像
なんとも不思議な光景でした。

画像
富岳風穴の入り口ゲート

画像
風穴(溶岩流が冷えてできた空隙)への急な階段

画像
風穴内部。内部はかなり気温が低い(10度以下?)

画像
 同。溶岩が波打って流れる際にできた跡です。

画像
溶岩が流れたのは江戸時代。間もないので表土薄いにも拘わらず、樹林が形成されています。根は地下深く入れず、うすい表土に広がるように根を張っています。植物の逞しさを感じました。

感謝 久しぶりの参加にも拘わらず、楽しい一日を過ごすことができました。ありがとうございます。
幹事の皆様、大変楽しい一日でした。お世話様でした。
0

安曇野北アルプス展望のみち(2013/10/28)

 台風27号も日本の東を通り抜け、大過なくほっとしました。二日後の10月28日(月)、事前に申し込んであった安曇野ハイキングに参加しました。
 中央林間を午前7時に出発するバスツアーです。当日は抜けるような青空、幸先いい出だしになりました。長野に入ってからも絶好のハイキング日和の天気です。

 「安曇野北アルプス展望のみち」のスタートは、安曇郡池田町の郊外、花見(けみ)。
コースはゴールに向け北上、約6kmの距離です。歩きながら常に視野には、北アルプスの峰々が入っています。
かつて登ったことのある銀座コースの山々、現役時代、夏季教室で登った鹿島槍ヶ岳、爺が岳、さらに北方遠くにはスキーや登山で何回も行ったことのある白馬岳がある地域が、迫力ある姿を見せてくれました。

画像
スタート地点です。当日のバスツアーには総勢約30名。平日のため、年配者が大部分です。スタート地点には池田町の観光課の職員の方が出迎えてくれ、その後いろいろお世話をいただきました。ありがとうございました。

画像
コースは丘陵の麓の農道です。北アルプスが一望できます。

画像
このコース中にある道祖神の一つ。

画像
冬の漬物用でしょうか、白菜が立派に育っています。

画像
田圃は取り入れた稲が架けられて乾燥中。この池田町は池田ブランドのコシヒカリの産地です。昼食はこのお米で(新米!)つくっていただいたオニギリ。これもお手製の味噌(三種類)をつけていただきました。いままで食べたことないおいしさです。おかずはいりません。

画像
北アルプスを背景に美しい田園風景が広がっています。

画像
オニギリの昼食です。それはそれは美味しいオニギリです。感激しました。

画像


画像


画像
美しい風景が続きます。

画像
ここ池田町は花が美しい。田んぼでは稲藁を燃していました。いかにも秋らしい風情です。

画像
鹿島槍、爺が岳は、二日前の降雪で頂付近は白くなっていました。

前文でも記しましたが、北アルプスは私にとって青春時代の遊びの地です。今回のハイキングで、それらの山々を間近にできたのは大変な幸せです。(2013/10/29記)






ヨーロッパ青春ドライブ紀行・1973(1)

画像


ヨーロッパ青春ドライブ紀行・1973

           1973年7月30日(月)~8月27日(土)

はじめに

 私は1943年生まれ、2013年現在69歳(♂)です。

 だいぶ古い話になりますが、ちょうど40年前、私が29歳(1973・昭和48年)の夏、日本ユースホステル協会主催のヨーロッパ自由旅行に参加しました。
 参加の理由は、友人から誘われたのがきっかけですが、地質学のメッカ、ヨーロッパアルプスをこの目で見る絶好の機会と思ったからです。

 往復の飛行機は、ユースホステル東京支部の団体ですが、往きはロンドンのホテルで解散、還りはパリ郊外にあるユースホステルに集合、その間約3週間は、自主的に各国を巡るという旅行です。

 その自主的な期間は、参加者によってまちまちで、団体でバスをチャーターして各国のユースを巡る者、個人や数人の仲間でユーレイルパスを使い各地のユースホステルを巡る人、中には自転車で行動する人もいました。

 私は、職場の友人二人(岩さん、有さん)とその岩氏の父上(岩さんパパ)と、計4人でレンタカーを利用しての旅を計画しました。レンタカーを使って巡るグループは、私たち以外にはありませんでした。

 レンタカーは、ベルギー(ブリュッセル)で借り、フランス(パリ)で返しました。
 走行距離は約5000kmに達しました。
 行程はイギリス→ベルギー→ドイツ→オーストリア→スイス→イタリア→フランスでした。
 以下は、その紀行文(その時の記録が押入れから出てきました)。ここで公開したいと思います)です。

0

ヨーロッパ青春ドライブ紀行・1973(2)

7月30日(月)  出発前日(東京代々木オリンピックセンター)
 
 羽田発(JAL)は、1973年7月31日夕方ですが、前日に東京・代々木オリンピックセンターに宿泊、翌朝、貸し切りバスで羽田まで行きました。
 一行の人数は大型バス1台分ですから約50人ほどでした。

0

ヨーロッパ青春ドライブ紀行・1973(3)

7月31日(火) 
日航機内(羽田→アンカレッジ(給油)→北極点通過→ロンドン(ヒースロー空港)

 Around the WorldのBGMが流れる機内、午後10時羽田国際空港を離陸。生まれて初めての飛行機、東京の灯が美しい。
 生まれて初めてのフライトはなかなか爽快(いうより豪快かな)。席はあいにく翼の上だが、左に遠くなる日本を見ながら上昇。否が応でも感傷的にならざるを得ない。
 機内アナウンス「太平洋上空、高度3万3千フィート、時速920k/h・・・・・・」。
 早朝、アンカレッジ着。空港内の免税店を見る。やはり毛皮類が安い。
 給油が終わり、再び離陸。間もなく北極圏入り。
 北極点を正午ころ通過。機長から通過証明書をもらう。早朝ロンドン、ヒースロー空港着。
画像
北極点通過証
0

ヨーロッパ青春ドライブ紀行・1973(4)

8月1日(水)  ロンドン(Worsley Hotel 泊)
 

 アンカレッジで給油、北極圏の上を明るいまま飛んで無事、6:30AM(ロンドン時間)、ヒースロー空港着。税関は全くのフリーで気が抜けた。
 早速空港内のBarckay Bankで$25をポンドに交換。
 手続きのミスで迎えのバスは来ない。リムジンでVictoria St. さらに例のタクシーでHotelへ。Worsley Hotelは、Clifton Av.の近くにあり、こじんまりした静かなホテル。早速荷を預け市内散策を試みる。

注)Worsley Hotelの火災(追記) 
 金曜日1974年12月13日の早朝、火災の原因はホテルへの放火でした。 何人かの宿泊者は、煙の匂いによって覚醒し、火災を報知するためにアラーム押した。ある宿泊者は、火災が初期の段階、消火しようとしましたが、操作方法を知らなかったので消化を断念した。

 

 ホテル近くにある道路沿いの小さなカフェで朝食。おいしかった。
 市内は歩くつもりだったが、ロンドン特有の雨が降ってきた。ロンドン人は平気で歩いているが、我々は(3名)はチューブに逃げ込んだ。

大英博物館へ。
 ロンドンは地下鉄(チューブ)が縦横に走っているが、全体的に古めかしい。当たり前だ、1900年初頭につくられたから、優に70年が過ぎている。電車内は狭いが、なかなか便利。

 British Musiumは、ツタンカーメン展(東京では数年前にやっていた)を開催していて、前の広場は入場を待つ人でいっぱい。館の中はさすが世界に誇るだけあって、内容には圧倒された。
恥ずかしながら、予備知識もなく、どこにないがあるかが分からないので早々に出て、市内を歩き回った。
 見るもの全て珍しく、おのぼりさん同然の我々にとって、全てが興味・関心の的。道行く人、店、建物、ETC 。
 Traffalgar square, Picadelly circuasなどを巡って、夕方ホテルに戻った。 東京を出て20数時間、ろくに寝ていないので、全員疲労気味
0

ヨーロッパ青春ドライブ紀行・1973(5)

8月2日(木)  ロンドン市内観光→ブリュッセル(夜行列車、フェリー、列車)

 今日はロンドンを離れ夜行で、ベルギー、ブリュッセルへ向かうことに決定。
 ホテルから重いリュックをかついで、ビクトリア駅へ。
 コインローッカーに荷を預け、早速昨日に続いて市内観光。まずはバッキンガム宮殿へ。11AMからの衛兵交代式を見物するために、すでに宮殿前にはたくさんの人が待っている。女王旗が降りているので、今日は女王は不在らしいが、華やいだ雰囲気が漂っている。

 11時30分、衛兵の交代式が始まった。お馴染みの赤の制服に、長靴、黒の縦長の帽子、いづれも様になっている。一つのショーとして見応え十分。式は30分程で終わった。
 人の流れにのって、ウエストミンスター寺院へ。ゴジック調の建物は立派だが、私にとっては少し不気味に感じてしまう。
 寺院内のステンドグラスが美しいが、全体として重々しい。空を突くような塔も気にくわない。近くのカフェでスープとサンドイッチで昼食。約40ペンス。

 ビッグベンの近くの橋のたもとから、テムズ河の遊覧船に乗り、河を遡ってロンドンタワーへ。テムズ河はドブ臭さこそないが、水の色は土色に濁っている。ここも公害か。ロンドンタワーはいくつかの建物からなる。(要入館料)そのうちの一つ、ジュエルハウスは女王の戴冠式で用いられた宝石類が保管されている。入ろうかと思ったが人気があるのだろう、人がいっぱい。入館を諦めた。
 中世からの武器類を収めている館にはいる。銃、剣、甲冑等が陳列してある。歴史の重み尾が感じられた。
 
二階建てバスでハイドパークへ向かう。広大な公園で、どの位の広さがあるか見当もつかない。大都市のすぐ隣に、このような公園があるのが羨ましい限り。
 公園内で少年達とサッカーに興じた。同僚のA君がうまい。再びバスに乗りビクトリア駅へ。
近くのレストランで夕食。

 23:00発の列車でブリュッセルに向かう。この列車の終点はドーバー。ヴィクトリア駅は上野駅のような賑やかさはなく、列車も楽に座席がとれた。
深夜にドーバー着。連絡橋で、ベルギー(オステンデ)行きのフェリーに乗る。船内で安いスコッチを買う。かなりクセがある。ドーバー海峡はかなり揺れ、吐く寸前までいった。
0

ヨーロッパ青春ドライブ紀行・1973(6)

8月3日(金)    ブリュッセル→ルーヴェン(走行距離 51K)

  小雨降るブルッセル・ミディ(南)駅に午前6時30分着。実は下車予定駅は、一つ先のブリュッセル中央駅だったが、早トチリして降りてしまった。
画像


画像


画像
ブリュッセル・ミディ駅

この駅の近くにもレンターカー営業所(ハーツ)があり、格好の車を手配することができた。

 昨晩23時00分でロンドン・ビクトリア駅をたって、約8時間余り、ドーバーを渡り、ベルギーのオステンデで税関手続きをして列車で大陸にやってきた。

 ベルギーは牧畜が盛んなようで、車窓からは牛が放牧されている風景が続いた。
 ブリュッセル・ミディ駅で朝食。
 そして通じない英語(ベルギーのこの辺りはフランス語圏)で訊いて、やっとの思いで小雨の中、重いリュックを背負い、歩いて15分のHERTZの営業所へ。
 街中は通勤時間帯だというのに人通りが少ない。あの混雑ぶりは日本の首都圏独特のようである。
 ハーツの営業所でもやっとのことで(相手方の言葉がまったく分からない)車を借りることができた。
 その車はSIMCA1100で、日本のパブリカ、カローラクラス。新車同様でまだ2600kしか走っていない。
 前輪駆動車で、現在、日本ではスバル1100だけのメカである。
画像
シムカ1100


ドライブ旅行スタート

 さっそく荷をトランクに積んでいよいよ走行に入る。初めて免許証をもらって街中にでていくあの緊張感が蘇った。左ハンドルの右側通行。ソロソロと走り出す。
 ブリュッセルの街中をあちこち回って馴らして、いよいよケルン(ドイツ)方面へ。(午前10時)

 今日はブリュッセル東方の30kほどにあるルーベン(LOEVEN)のユースに泊まる予定。
 道路は片側一車線だが、幅に余裕があり快適。
 道路沿いには美しい森、赤いレンガ造りの家、小高い丘、などが続き気持ちのよいすばらしいドライブ。
 午後2時、ルーベン着。ルーベンは小さな街だがよく整った家並みを始め、中世風の寺院などがあり、カーラジオからはモーツアルト(?)が流れ、その曲が街の雰囲気によう合う。
 道路沿いに車を止めて、近くの店からパン、ハム、リンゴを買って車内で昼食。おいしい。

 ルーヴェンのYHに向かう。マークを頼りに探し出す。
画像


 開門は午後5時。それまで車内で昼寝をした。昨日からよく寝ていないので、少しの時間でもよく眠れる。

 午後5時、オランダからのサイクラー6~7人、スペイン人、カナダ人、我々日本人。まさに人種のルツボだが、片言の英語でなんとか通じ合う。楽しいひと時。
 夕食はスープ、ポテト、ビーフシチュウ。味はまあまあであった・
 この辺りも緯度が高いせいか、涼しい。夜も8時を過ぎても外は明るい。午後9時就寝。

ヨーロッパ青春ドライブ紀行・1973(7)

8月4日(金)   ルーヴェン→ ケルン(ドイツ)  走行距離 208k

 パン、バター、ジャム、ソフトチーズの軽い朝食をとち、午前9時、ユースを出る。
昨晩は疲れていたためか、熟睡でき体調は良好。昼にリージュ(LIEGE)に着く予定で国道E5を突っ走る。タイアは、日本では特別装備であるラジアルタイアの、道の凹凸をよく拾うが、安定性は大変よい。やはりこちらの車はたとえ小型車でも高速走行ができるように基本性能が高い。
 ベルギーの主要産業は農業と思われるほど、道の両側には農地が広がっている。国道沿いは一面の畑。小麦だろうか黄ばんでいて今が収穫期のようだ。所々小さな町並みを通る。その多くの街並みは、やはりレンガ造り、どこの街も整然としており、気持ちがいい。
画像
国道沿いに広がる農地

 エコノミックアニマル、ここにまかり通るがごとく、道を走っている車には日本製が多い。カローラがもっとも多く、クラウン、マークⅡ等トヨタ車が幅をきかせている。その他にダットサン、チェリー、パブリカ、ファミリア、カペラ、セリカ等が目につく。

 ところでヨーロッパでは、車のトランク部分に、各国の頭文字のシールが大きく貼ってある。イギリスはGB,ドイツはD,ベルギーはB,オランダND、フランスF,イタリアはI、、スイスはSCHなど。国道には各国の車が入り乱れて走っており、国際色豊か。 それからもう一つ、この季節、キャンピングカーを引いている車も目立つ。車内には老夫婦二人だったり、子どもを伴った家族だったり。途中のパーキングエリアで、車の傍らで簡単なお茶をのんだり、ゆったりと旅行を楽しんでいるようだ。日本にもこういう時代が来るのかな。

画像
ブリュッセル→リエジュ

昼近くLiege 着。
まあ普通の街というところか。街中で昼のパン(こちらのパンは実においしい)を買い、街中を散策、ウインドウショッピングを楽しむ。
 さすが宝石の国だけあって、ダイアが安い。日本では20万円ほどのものが、4000~10000 BF(約3万~7万)程度。むろん金は無いから買えない。ただし衣料品はかなり高いみたい。
 交差点近くのカフェでアイスクリームを食す。おいしい。
 
 Liegeを後に更に西へ向かう。次の目的地はアーヘン(Aachen)。途中道から外れるが有名なマーストリヒトの街がある。Aachenの近くに、ベルギーとドイツの国境。Visaだけで簡単に通過。
 アウトバーンを快適にとばし、午後3時、ケルン着。
 ケルン・ドイチュ・21のユースを探す。近代的な建物、受付は午後4時から。
 ケルンでは、かねて約束してしていた、同僚の岩氏のお父さん、岩パパと再会することになっている。岩パパはケルンまではロンドンから一人で行動していた。
 落ち合う場所は、ケルン駅。
画像
ケルン・ドイチュ・21ユース

 ベルギー人に比してドイツ人はやや硬い感じ。
 言葉はこの三日間で、英語、仏語、独語とかわり、頭の中は混乱気味。
 約束の時刻の午後4時過ぎになっても、お父さんが現れない。6時まで待ったが来ず。腹が空いてきたので、次の列車までの時間を利用して、夕食をとりに。駅近くのホテル街をウロウロ。とある居酒屋を見つけ中に入る。何人ものドイツ人に囲まれて、やっと夕食にありつけた。トンカツらしきもの、サラダ、パン。約6マルク(600円)。
 腹も収まり、再び駅へ。駅前広場には日本同様、不良風のアンチャン、ネエチャンがたむろしている。
 午後8時(未だ外は明るい)になっても、岩パパは現れず。仕方ないので今晩、岩パパも共に泊まるホテル(Drei Klonnen Hotel)へ直接行くことにした。このホテルもやっとの思いで探し出す。
 幸いなことに岩パパは、すでにホテルに到着、旅装を解いていた。ほっとする。
 このホテルは一泊約4000円、我々にとっては高額ホテルだ。こじんまりとしたきれいなホテル。私たち若い者にとってはもったいないようなところ。
 部屋の窓の外にはカフェテラス、その向こうにはライン河。こんなところに泊まれるのも小さな幸せと思う。
 同僚の有氏曰く。幸せは金では買えぬが、金も必要だと。同感、同感。午後10時半、下のテラスで地ビールを飲む。この時間でも。テーブルは人でいっぱい。
 ケルン市はライン河の畔にあり、大きな近代的都市である。高層ビルもあちこちに建っている。街中はバスの他にトラムも走っている。
 ケルン市内で最も目につくのは、ケルン駅前のケルン大聖堂だ。ゴジック調の尖塔をもった大きな建物で、風格がある。
 この寺もウエストミンスター寺院と同じく壁は真っ黒け。その原因は古いホコリをかぶったせいか、あるいは第二次大戦中、カムフラージュのために黒く塗ったのか、不明。これらの寺院は遠くから眺めると美しいが、近場で見ると幻滅する
0

ヨーロッパ青春ドライブ紀行・1973(8)

8月5日(土)  ケルン→フランクフルト  走行距離271k

 生まれて初めての分厚いベッドで熟睡。気持ちのよい一晩を過ごせた。
午前8時45分、フランクフルト向けホテル発。
 フランクフルトへは、アウトバーンを使わずライン河沿いの一般道を行くことにする。ライン河沿いの道は、ドイツにしては珍しく道は狭く、両岸にある。鉄道もライン河に沿って敷設されていて、頻繁に走っている。
 このライン河沿いにはフランクフルトに向かう途中、ドイツの旧首都ボン、コブレンツなどの名市街がある。

 出発当初は左岸の道を往ったが、ラインの眺めが右岸の方がよいことに気づき、途中で橋を渡る。ただしライン河を渡る橋は数十kごとにしかないとのこと。
 このあたりの水量は大変豊かである。水は濁っている。船の行き来も盛んで、1千トン級の貨物船(タンカー、鉱石船)が多く、重要な輸送水路であることが分かる。それらの船に混じって、大きな観光船が客をいっぱい乗せて行き来している。
 河の両岸の上は小高い丘が続き、その斜面には葡萄が栽培されている。
画像
ライン河 水量は豊富で、両岸は鉄道と自動車道が河に沿って敷設されている。

ボンで市内観光。
 ボンはかつての首都とはいえ、こじんまりとした静かな街である。ボンといえばベートーベン。彼の足跡があちこちに残る。ベートーベンの立像が街中にある。
画像


 昼食(例によってパンとハム、果物)をとったキャンプサイトでは、家族連れが思い思いで休んでいる。その子どもたちと交流(?)した。記念にと五円玉をあげようとしたが、断られた。理由もなしにもらうことはいけないと躾けられているのだろうか。

 ライン河沿いにはホテルが各所にあり、土曜のこともあってその周辺は賑わっている。

途中ローレライに立ち寄る。
 ライン河が左へ大きく湾曲している小高い丘の頂がローレライ。3人で上ってみる。上からの眺めは大変よく、ラインの悠々たる流れ、行き来する船、両岸にそれぞれ街道と、鉄道。鉄道は日本の国鉄同様かなりの過密ダイアで頻繁に列車が行き来している。
 ローレライは故事にあるようにその美しさに見とれてしまい、河の暗礁にぶつかってしまった箇所。確かにドナウ河は大きく蛇行してその危うさはあるんだが、予想していたより平凡な風景。(かつてローレライ付近のライン河は、川幅も狭く流れも早く、船乗りにとって難所であったらしい。掘削などして改善された。)
画像
ローレライ

画像
ローレライからの眺め

フランクフルトへ向かう
 街道の途中には数々の古城が佇んでいる。そのうちの一つに入ってみる。ホテルになっている。かつての主が、こんな眺めのよいところに住んでいたんだと思うと羨ましい。ライン河を見下ろす城壁には小さな砲台がいくつも置いてある。
 この城の建築材は近くの山から調達らしい。粘板岩、スレートを巧みに重ねて城全体を築いている。
 ライン河に一時別れを告げて、アウトバーンにてフランクフルとに入る。岩パパの知人がここにすんでいるというのでその方を訪ねる。
 三井物産の商社員で高級オーディオ製品を売り込んでいるという。新しいマンション21階建ての12階に住まわれている。家賃は6.5万円という。
 日本からの土産品を渡して、ユースへ行く。マイン(Mein)川の畔にあるユースは、かなり大きなもので、建物内も人でごったがえしている。運よく、4人分のベッドが取れる。
 再び先ほどの商社員の家を訪問、夕食に日本食をご馳走になった。なんとのり巻き、とアゲ寿司である。食材はほとんどここのスーパーで手に入るとのこと。(値段は日本の3倍くらいだそうです)。
 ユースの門限が午後10時なので、早めにお暇を告げた。

ヨーロッパ青春ドライブ紀行・1973(9)

8月6日(日)  フランクフルト→ハイデルベルグ→フュッセン
                                          (走行距離385K)

 今まで宿泊したユースはどこも時間に厳格である。特に門限に厳しい。
このフランクフルトのユースは、駅に近いこともあて、大変な数のホステレラーが宿泊している。ユーレイル利用の利用者には便利なユースである。ただ連泊するには、清掃など奉仕活動をすることが義務付けられている。

 午前9時30分ユースを出て、昨日お世話になった邦人にお礼に行く。記念撮影。
 今日の目的地は、ロマンス街道の起点フュッセン。途中、ハイデルブルグに寄る。
運転に慣れてきたせいもあるが、時速120~130走行が可能。道路状況もよい。車も小排気量(1100cc)ながら、よく走る。

 ハイデルベルグ(Heiderberg)着午前11時30分。河の畔に車を止め、旧市内を散策。日曜のせいもあるが町中観光客で溢れている。
 アルトブリュッケ、アルトハイデルベルグのあのハイデルベルグに今いるんだ!名前こそ知っていたが実際にその街中を歩いていると思うと興奮する。
 ハイデルベルグ城に昇る。
 歴史ある階段を数百段上がると、城の前に出る。城の前面は崩れ落ちているが、貫禄十分な城。テラスに立って眺めると旧市街が一望できる。
画像
ハイデルベルグ城。手前の橋がアルトブリュッケ。

 旧市街と新市街の別がよく分かり、城の周囲は古い家並みが城を囲むように続いている。テラスのすぐ下には、ハイデルベルグ大学の医学部、その右手にアルトブリュッケ。旧市街の家の屋根は赤レンガ。全く日本の田舎とは異なる風景が目の前に広がる。

 昼食は市内にある有名なレストラン、Roter Ocksen(赤雄牛)でとる。店内は客でいっぱいだ。この店で往時の研究者、学生たちが論戦をかわしたという。
 ビール(他の3人はワイン)、ソーセージ、ジャガイモでお腹一杯。一人8マルク(800円)。
画像
ローターオクセン

 ハイデルベルグは哲学者、科学者が思考を巡らした街だというが、それに相応しい中世の面影をあちこちに残す小さな街だ。
 名残惜しいがさようならハイデルベルグ!

アウトバーン経由で、Memmingen,Fussen,そして今日の宿泊予定のOttobreinenへ。
午後7時、静かで美しい小さな田舎町オットーブロイネンのユース着。
ソーシャルウオーカー数人に引率された小学生の団体が入っており、賑やか。食事後、彼らと片言の英語で交流した。
午後10時30分就寝
0

ヨーロッパ青春ドライブ紀行・1973(10)

8月7日(月) 

 オットーブロイネン→フユッセン→アウグスブログ→ローテンブルグ (走行距離 335k)

 オットーブロイネンのユースは、大変感じのよいもので、若い夫婦できりもりしている。
パンとコーヒーの軽い朝食をとり、午前9時、ユースを出る。一路フユッセンへ。

 フッセンはドイツアルプスの中にある小さな田舎町。ロマンス街道の入り口にある。広い牧場風の草原で昼食。気分爽快。草原を渡る風が心地よい。
 そこからは、山の中腹にあるノイシュバンスタイン城が遠望でき、食欲も進む。生のオレンジジュース、ミルク、パン、ハム。お腹一杯。
画像
ノイシュバンシュタイン城(右手奥)

 ロマンス街道は片側一車線だが、道幅が広く高速で走れる。道路からはドイツアルプスを望める。ドイツアルプスは石灰岩からなり、その侵食された異様な山容が印象的。麓にはカウベルを付けた牛がのんびりと草を食んでいて、なんともいえぬ牧歌的風景が広がる。

ロマンティック街道(ロマンティックかいどう、独: Romantische Straße、ロマンチック街道とも)は、ドイツのヴュルツブルクからフュッセンまでの366kmの街道ルートである。 ドイツでは、「観光街道」(ドイツ語表記では、Ferienstraße - 休暇街道。ドイツでは150以上のこうした観光コースが指定されている)として指定されているものの一つ。ここでの街道とは、そのような1本の道があるというのではなく、ほぼ直線状に連なったドイツの観光名所を地図の上でつなげ、続けて観光するのに便利なように案内した順路のようなものである。ロマンティック街道は街道沿いに点在する中世都市(ローテンブルク、ディンケルスビュールなど)や美しい城(ノイシュヴァンシュタイン城、ハールベルク城など)、宗教建築(ヴィュルツブルクの大司教館やヴィースの教会など)、工芸品(クレクリンゲンのマリア昇天の祭壇など)が点在し、フランケン・ワインやドナウ川のます料理など観光資源が豊富なルートで、最も人気の高い観光街道の一つである。ロマンティック街道はローテンブルクでやはり人気の観光街道古城街道と交差する。
画像
ロマンス街道

 午後1時、アウグスブルグへ向けロマンス街道を一走り。ロマンス街道は途中に城郭に囲まれた小さな街をいくつも通り抜ける。

 今の日本は経済大国だといわれているが、ここドイツのバイエルン地方を通ると、経済繁栄とは無縁で、余裕というか、豊かな土地、日光、食物、緑、大気、人が生きていくうえでもっとも大切なものを大事にしているようすがよく分かる。東京に帰るのがいやになってしまうほど。
街道途中のカフェでワインを飲む。よく冷えた白ワイン。すっきりとした口当たりでのみやすい。
ドイツ内は、英語を話す人が多く、日常のことなら英語で事が済む。

ドナウヴァルトでドナウ河の源流を見る。

午後7時、ローテンブルグ着。近くの街道筋日にあるチマー(Zimmer)で宿泊することにした。
画像
ローテンブルグ
ローテンブルグ市のマルクト広場に面している市庁舎の時計塔では、毎正時に人形が踊りだす。市全体がかわいらしい。
画像
ローテンブルグマルクト広場

 ドイツの街道筋には日本の民宿にあたる宿屋があり、Zimmerとよぶ。部屋が空いているとZimmer freiと看板が出ており、気軽に泊まることができる。民家を改造したものだが、部屋は大変清潔で気持ちよく過ごせる。宿泊料金は13マルク(朝食付き)+夕食代(6.5マルク)+ワイン3マルク。
日本円に換算して2200円前後・風呂に入ってさっぱりする。
Zimmerの夫婦は大変気持ちのよく、接してくれる。宿泊の楽しさがいっそう増す。
                        10時30分 就寝 
0

ヨーロッパ青春ドライブ紀行・1973(11)

8月8日(水)ロマンス街道
ローテンブルグ→レーゲンブルグ→ニュルンベルグ→パッソウ (走行距離 439k)

 昨晩泊まったZimmerは快適だった。特に夕食時に出してもらった白ワインはおいしかった。
午前9時、宿発。ロマンス街道を一路レーゲンブルグへ。このロマンス街道はその名の通り、小さな田舎町をつないでいる。道の両脇は小高い丘陵、森、畑を残している。街中の家々にはベランダにベゴニア、ゼラニュームを飾っていて、家々の白亜の壁と調和している。
画像
レーゲンスブルグ

 レーゲンスブルグでロマンス街道と別れ、アウトーバーン経由ニュルンベルグへ。休憩を兼ねてショッピング。スラックス付のジャケットを69マルクで買った。

 再びアウトバーンを利用してパッソウへ。この道はドナウ河沿いにあり「ドナウ河のさざ波」を口ずさみながら運転。無事パッソウ着。
 
 パッソウはオーストリア国境すぐ近くにある街である。川幅がまだ狭いドナウが流れ、石畳を敷き詰めた狭い街路が縦横に走り、趣十分な街である。ここからリンツまでドナウを遡る遊覧船が出ている。

 今日の宿泊はドナウ沿いでキャンプを予定しているが、格好の場所がないので、ユースを探す。
道から小高い丘の上にある格好のユースを見つけた。なんとそのユースは城である。ローギアを使い急な坂を上る。そのユースのペアレントは、大変陽気な人で我々を歓迎してくれる。うれしい。
 到着が少し遅くなったので夕食は簡単なもの(パン、バター、ソーセージ、テイー)しかなかった。
 食事後、米国からやってきた美人の女性教師と女子学生(ミシガン大学)と歓談。英語にも慣れ、冗談も言えるようになった。米国でも学生と教師間のトラブルがあるとのこと。世界共通の現象か。
 部屋は城の上部の塔にあり、12畳位の広さ。窓からはドナウの流れを見下ろせる最高の環境。城主になった気分を味わう。  23時就寝。
0

ヨーロッパ青春ドライブ紀行・1973(12)

8月9日(水)    パッソウ(ドイツ)→ウイーン(オーストリア)
                                           走行距離 331k

パッサウ(Passau)は、ドイツ南東部、バイエルン州の都市である。ミュンヘンから電車で2時間強、オーストリア、チェコとの国境に接する。ドナウ川(Donau)、イン川(Inn)、イルツ川(Ilz)の3つの河川がこの地で合流することから、「ドライフリュッセシュタット(Dreiflüssestadt:3河川の街)」の異名を取る。

 朝6時に起きて古城の周りを散策してみた。展望台があり、パッソウの街を一望できる。ドナウが街の外れをゆったりと流れ、石造りの家並みが混然と密集しているのが見える。
画像
城からパッソウの街を望む

 8時30分ユース発。今日の目的地はウィーン。
 アウトバーンを使わずにドナウに沿った街道を行く。
 市を出てすぐオーストリアとの国境。パスポートを見せるだけで簡単に通過。

 オーストリアはドイツに比して全体的に地味というか貧しいようだ。やはり農業中心の国だからだろうか。道も気のせいか悪い。
画像
ドナウ川に沿って国道が両側にある。その脇には鉄道も。

 昼近くリンツに着く。
$からSに両替。買い物の予定もあるので40$を交換した。
 市内のレストランで昼食をとる。自慢のバックヘンドル(チキンバスケット)にビール。お腹いっぱいになる。少し酔ってしまった。
 午後2時、ウイーンに向け出発。ドナウ沿いに多少ガタガタ道を一路東へ。
 午後7時、ウイーン着。

 予約してあった市内のPensionへ。予約に齟齬があり、宿のオーナーは機嫌が悪い。
オーナーによれば予約は、8/8~8/10であるという。余分に一日分、払うことでケリ。
夕食は、オムレツ、スープ、ワイン、ビール。すぐにバタンキュー。

0

ヨーロッパ青春ドライブ紀行・1973(13)

8月10日(木)    ウィーン   走行距離 0k

画像
ウイーンあちこち

 午前3時、まだ暗いのに目が覚めてしまった。仕方ないので、日本へ数通の絵葉書を書く。このところ5時には目が覚めてしまう。興奮しているせいか。
 例によって簡単な食事を済ませてから市内見物。今日は車を使わず徒歩で移動する。

まずは、シュテファン大聖堂へ。
 ゴジック調の高くそびえる尖塔を持つ寺院。正面からの眺めは芝と噴水の広場からだとなかなかの見ごたえがある。中のステンドグラスが大変美しい。模様はロンドンのウエストミンスター寺院とよくにているように見える。
画像
シュテファン大寺院

 さらにRingに沿って歩く。
リングはかつてウイーン旧市街を囲む堀であったところ。現在はそれが埋め立てられ、その後には市電が走っている。
画像
リング市電

 ウィーン大学。ヨーロッパの大学を直接みるのはここが初めてだが、さすがに立派な建物だ。大理石を敷き詰め、天井も高く貫禄十分。中庭の回廊沿いには、この大学で教鞭をとった教授たちらしい像が数十人、掲げてある。物理で有名なボルツマンの顔がある。丁度2階の教室で夏季講座が開かれていた。大学の正面に黒い半旗が掲げられていたので、聞いてみたら、ある教授が亡くなったとのこと。

 大学に続いて自然史博物館、何の気なしに(有料)入ったが、館内の整備状況に圧倒された。今日は地学関係(主に化石)が大量に展示されており、ウイーン近辺の古生界から新生界までの標本が所狭しと並べられている。象、魚類、三葉虫、恐竜などが特に充実している。時代別に整然と展示されている。館内では仲間とはぐれてしまい、ここから単独行動。

オペラ座
 憧れの場所。外からの眺めは道路工事が行われおり、埃ぽい。夏は音楽等はお休みなので、工事もこの時期に合わせて行われているらしい。
画像
オペラ座(ウイーン国立歌劇場)

 15S払い、英米人と一緒に英仏語の案内付の館内見学ツアーに参加する。中はさすがに豪華な造り。まばゆいばかりのシャンデリア、大理石、じゅうたんのフロア。ホールにはシューベルトやワーグナーの像が置いてある。
 楽団の演奏スペースは以外に狭く、周りは個室からなる観客室が4階まである。舞台正面の個室は特に広くとってあり、特別室となっている。個室等は一年を通して貸切になっているらしく、1000ドル(30万円)とのこと。
画像


 午後5時近く、市民広場を横切る。運よく、市民らしき楽団員によるコンサートが始まるところ。古い曲で短いものが多いが、雰囲気は十分に楽しめた。小さな広場の中央に楽団が陣取り、その周りを年配の方を主に市民や、観光客が囲んで楽しんでいる。華やいだ雰囲気が辺りを包んでいる。

  午後7時、ペンション着。着替えてウィーン最後の晩をムジークとワインで過ごそうと、市電に乗って、ウイーン郊外のGrinzinngへ。やってやってる、ビヤホール様の店がずらっと並んでいる。その中の一店に入る。
画像
グリンツィング・ホイリゲ(ビアホール)

 バイオリン、バースギター、アコーデイオンからなる演奏メンバーが、ウインナワルツ、ビヤダルポルカ等の馴染みの曲を客のリクエストに応えて弾いてくれる。
 ワインとビースステーキを食べながら楽しむ。その演奏グループは我々のテーブルにもやってきて、“スキヤキ”を弾き、さらに“野バラ”を弾いてくれた。小生も曲に合わせて歌った。
 ごご11時近くになって、ベンツのタクシーで宿へ帰る。12時就寝
0

ヨーロッパ青春ドライブ紀行・1973(14)

8月11日(金)   ウィーン→ザルツブルグ   
 
 この二日間泊まったPension は、小生たちのミスもあったが、宿の経営者の対応はあまりよくなかった。もてなしの気持ちが足りない。律儀者で厳格な性格のようだ。
 トラブルの第一は、予約の日程が一日ずれていたらしいこと。東京で確実にしたはずだが、こっちへ来たら、彼曰く、一日遅く来たという。水掛け論になるのでこれ以上もめるのはいやだから、当方で引き下がった。
 第二は、部屋の中に干し物をつるしたこと。これも厳しく言われてしまった。Pensionは泊まるだけで、洗濯はまかりならないと言う。物分りのないオヤジだ!
 それらはともかくとしてウイーンはすばらしい街だ。

 宿を午前10発。岩パパは単独で列車を使い、ザルツブルグへ先回りするとのこと。我々はウイーンの森、ベートーベンハウスをゆっくり回り、アウトバーン経由でザルツブルグへ向かうことにする。

 小生にとってウイーンの森はバレー、交響曲等で馴染みだが、森の近くには日行った、Grinzingがあり、ベートーベンのシンフォニー6番や9番にゆかりの地がある。それらの地への道は、Beethoven gang(gangは木立の多い小径の意味)、Eroica gasse(gasseはstraseより細い道)と名づけられている。第6の第2楽章に出てくる小川のせせらぎのヒントになった水の流れもあり、散策できる。(理由は分からないが水は汚れている)
画像
田園のヒントになった小川

 それらの地を探すのに、地元の人に聞くのだが、ベートーベンにつてはなかなか通じなかった。ベートホーベンとホにアクセントをつけないと分かってもらえない。
 ウイーンの森は奥が深く、散歩やドライブには快適な道が縦横に走っている。カーラジオからはワーグナーが流れている。
 
 アウトバーンで今夜の宿泊地、ザルツブルグへ。約300kの行程。ゆったりとした快適な道路。我々の車は時速120~140k。走行帯を行く。追い越し帯ではベンツなどが多分、150~166k、もしくはそれ以上の速度でビュンビュンと行く。
午後3時30分、ザルツブルグ着。

 岩パパと待ち合わせの場所である橋のたもとへ行くが、まだ到着していない。次の約束の午後8時までには時間があるので、買い物。テーブルクロスを購入。2枚で17S。
 ヨーロッパではホンダ製のオートバイが若者に人気がある。この橋のたもとにも数台、バイクが置いてあり、若者が見入っている。ホンダがベスト、ヤマハがベターだそうだ。
 午後7時、今夜の宿を探しに郊外のHaleinnへ。車で20分。まずはユースへ。残念ながら日本のグループで満員。途中にあったペンションへ。90SでOK.荷を置いて、再び迎えに。無事会えた。
 夕食はピザ。そしてウインドウショッピング。ペンションに戻り午後11時就寝。
0

ヨーロッパ青春ドライブ紀行・1973(15)

8月12日(土)  ザルツブルグ(オストリア)→ケーニヒスゼー(ドイツ)
                         走行距離    124k

 ザルツブルグ近郊の家族的なZimmer で休息の一日が明け、簡単な朝食後、宿の娘さん(年のころ20才前後か、Eva という。)交換会。お母さんも交えて浮世絵のマッチ、センスをプレゼントした。あちらからはエーデルワイスの生花いただいた。初めて見るエーデルワイスは以外に地味な花である。
画像
エーデルワイス

 午前10時、別れを惜しんで出発。再びザルツブルグの市街に戻り、城(ホーヘンブルグ城)、ミラベル庭園,モーツアルトの生家などを見学。
 その後岩・有両氏は登山靴の買い物。600SFのものという。小生はホテルの庭でビールを飲みながら昨日の日記をつける。
画像
ホーヘンブルグ・ザルツブルグ城

 これからの予定は、再びドイツ領に入り、ヒトラーの別荘があった湖水地方ケーニスゼー(Konigsee)、さらにZell am See へ。
  Konigseeは、透明な水で満たされた美しい湖で、山間の奥まったところにある。しかしこんな山奥にと思われるほど観光客や避暑客でにぎわっている。湖の畔には水浴を楽しむ若い男女でにぎわっている。肌が白いので女性はビキニがよく似合う。目のやり場にこまるくらいだ。
画像
ケーニスゼー

 現金(シリング、マルクとも)が不足気味で、昼食を簡単にとることでせいっぱい。ツエルアムゼー(Zell am See) へ向かう。
途中の道はS字カーブが多く、運転が面白い。途中の店でブドーパン、スモモ、バナナ、オレンジジュースを買い昼食。
 その場所は、上高地の雰囲気によく似ていて、河童橋から見た穂高連峰の眺めにそっくり。この辺りの岩山の地質は石灰岩を主としていて、地層は単斜構造、厚さ数十mの単層が幾重にも積み重なっている。このような山容は日本では全く見られない。これらの山を切り刻んでいる河川の水は、石灰岩を削っているため、白く濁っている。ヨーロッパの山々は、多かれ少なかれ、白濁している河川が多く、日本のいわゆる山紫水明とは趣を異にしている。
 また今日の午前中に見たKonigseeは、様子からして氷河の侵食による氷河湖だろう。周囲の山々にはU字谷がよく発達している。

 今晩はこの旅行初のキャンプの予定。ヨーロッパではキャンプサイトは、正方形の中にテントの形が描いてあるマークでその場所が示されている。
 実際、キャンピングカーや、トレーラーを引いて旅する家族連れが多い。
Zell am See までへ十数kの地点のキャンプサイトを利用することにした。
夕食は、日本から持ち込んだ材料で2週間ぶりの日本食とする。ご飯は少しやわらかめになってしまったが、梅干、キューちゃん、ワサビ漬け、味付けノリ、インスタント味噌汁。周囲のキャンパーから物珍しげにしっかり観察されてしまった。
 熱源は携帯コンロを持参したが、灯油が手に入らず、サイトの管理人さんに電気コンロを借りた。
(キャンプサイト利用料640S(約800円)。
 今日の昼間も暑く、39度近くあった気温も(但し湿気が少ないため実感としては30度くらい)、日が沈むと急に気温も下がり、涼しくなりしのぎやすくなった。日較差が大きいようだ。
 午後9時、車の室内灯を頼りにこの記録を記している。
 カーラジオからは、オペラが聞こえてくる。さすが本場、音楽の国オートリアらしく、ラジオのダイヤルを回すと、どこかでクラッシク音楽が聴ける
0

ヨーロッパ青春ドライブ紀行・1976(16)

8月13日(日)    グロースグロックナー氷河 → ドビアコ

 午前6時30分起床。即席ラーメンの朝食。少し煮すぎてしまったがおいしかった。
今日のルートは山岳路。気を付けて行こう。
まずはグロースグロックナー氷河へ向かう。この氷河への道は有料(150SF)。S字カーブ、ヘアピンカーブ、おまけに急勾配。ギアもローで精一杯の道だ。標高2500m付近まで車で登れる。
 周囲の山々は3000m級で、氷河地形があちこちに残っている。今日目指すグロースグロックナー山は、この近辺の最高峰で、標高は富士山よりちょっと高い(3798m)。
画像
グロースグロックナー山岳道路

 山体上部から生まれて初めて見る、憧れの大氷河が流れ下っている。その名はグロースグロックナー氷河。氷河の下端に車を止めて、崖を下りると氷河の上に出られ、氷河上を散策することができる。早速、氷河へ。
画像
グロースグロックナー山と氷河

氷河も初ならば、その上に立つのも初めて、周囲の風景も初めて。感無量だ。
そこからははるか彼方に、頂が高くそびえ立っている。周囲の山肌を削りとったモレーンを大量に伴いながら、幅約1k、長さ数kにわたって麓へ流れ下っている。

 氷河の上は土砂に覆われて汚らしいが、その下は青氷。しかも結晶の粒度も大きく、美しい。
ところどころに規模は小さいクレバスがある。歩く上では特に危険はない。
氷河上のあちこちに足を伸ばした。氷河の末端部にきた。氷河が溶けた水がどうどうと音を立てて流れて氷河が運んだ土砂でせき止められた小さな湖をつくっている。湖は岩肌を削り取った土砂、粘土を含み教科書通り全体が濁っている。
画像
氷河の上に降り立つ

 周囲の山々を見るとやはり地層は単斜構造からなり、傾いている。構成岩石は、氷河が運んだモレーンを見ると結晶片岩類で力デイ片岩、絹雲母片岩、蛇紋岩も見られる。特に絹雲母片岩の白雲母の輝きが美しい。
モレーン(氷河堆積)は氷河の右岸に多く堆積している。手ごろなもの(絹雲母片岩、片麻岩)をサンプリングする。

午後2時、氷河に別れを告げて、慎重に坂を下る。今日の目的地コルチナダンペツオは、時間的にちょっと無理なので、途中のドビアコ(イタリア)周辺で宿をとることにする。国境を越えた途端、地域の雰囲気がガラっと変わるのには驚いた。イタリア人はドイツ、オーストリア人に比して明るいが、少々、ガサツで品位に欠けるところがある。

  ドビアコ着。この辺りはイタリア北部の観光地で、日曜日、夏季休暇が重なり、宿はどこも満員。仕方なく、最寄の食堂で夕食をとり、近くの木立の中でキャンプ。キャンプ中の子どもたちが10人近くやってきて歓談をする。午後10時就寝
0

ヨーロッパ青春ドライブ紀行・1973(17)

8月14日(月)  ドビアコ→コルチナダンペッツオ

 午前5時、近くの教会の鐘がガンガン鳴り、目が覚めた。
 顔を洗い歯を磨いていると昨日の少年たちが再び集まって来た。英語はほとんど通じないが、身振り手振りで愉快に歓談できる。
 岩パパは近くのレストラン内の部屋で寝て、いつものように早朝から撮影に出かけている。

 今日のハイライトは、ドライチンネン(トラチネ)で、最高峰が2999mある。文字通り目を見張る大きな大きな三つの岩峰が聳えたっている。この地域一帯はドロミテアルプスの一角で石灰岩質からなる奇異で独特な山容をしている。標高2500m付近までは自動車道続き、頂上直下まで車で行ける。(有料道路 約1500円)
 目の前に大きく覆いかぶさってくるような景色はすごいの一言。ヨーロッパアルプスの雰囲気を十二分に味わえる山群。ハーケンやカラビナ、ザイルを使っての頂上を極める登山を彷彿させる。
 今朝もほぼ垂直に近い大岸壁を登るパーティーが数組、麓から確認できる。赤いセーターを着た登山者が肉眼ではかろうじて点として見える。周囲の山々もみるもの全て驚きだ。
 道路を歩く人もニッカボッカをはき、ザックを背にしている。
画像
トレチネ

画像
上に同じ

 山を降りて、冬季オリンピックの会場となったコルチナダンペツオへ。
ここも観光地として街中がごった返している。街への途中には、ミズリナ湖など氷河湖が点在しており風光明媚。
コルチナで岩パパは、ゴンドラで展望台へ。小生は、街中のHertzで車のエンジン調整をしてもらった。岩氏と有氏はショッピング。
コルチナは小さな街で、街中は坂道が多く、ここも避暑客や観光客でごった返している。物価は高くもなく安くもなく普通。

 ここはイタリアなので街全体が陽気な気分に包まれている。
ただ小生にはちょっと肌が合わない。今までのところが落ち着いた雰囲気を持つ街が多かったせいか。
 今夜も宿は取れそうにもなく、初めから諦め気分。三日続けてのキャンピングとする。
街でワイン、パン、野菜を買って、街から20分ほど走った峠の道の脇でキャンプ地とした。
豪華な食事であった。同僚の二人は、会計に忙しい。午後10時就寝
0

ヨーロッパ青春ドライブ紀行・1973(18)

8月15日(火)    コルチナダンペッツオ→ボルツアーノ

 コルチナの街近くの峠での野営は快適だった。近くに小さな宿があり、その経営者の方が何かと面倒をみてくれた。旅人にやさしい。
 昨晩、野営したところは正式なキャンプ地ではなかったが、テントの隣には、キャンピングカーで旅をしているイタリアの小学校教師の家族もいた。
画像
キャンプ地

 午前9時出発。今日のルートはドロミテアルプスの中央を縦貫する。ヘアピンカーブの連続であった。道を登りきると四方に石灰岩特有の山体が間近に迫り、2000m級の山からの涼風が心地よい。
 ドロミテ山群の風景もそろそろ見飽きてきた。
 ドロミテ地方は、山脈全体が観光地になっているようで、道路沿いにはたくさんのキャンプサイトが点在し、色とりどりのテントの群れが箱庭のように見える。
 ここ数日間のルートは、山岳道路だが、高性能な車(FF駆動、ラジアルタイア、粘りのあるエンジン)のお陰で難所もなんなく切り抜けられた。

 途中のレストランで昼食。昨日もピザを食べたが、今日もピザ。やはり本場ものはおいしい。値段も手ごろで、600~800L(300~400円)、ボリュームもあり満腹になる。

 ところでここイタリアではサマータームを実施しており、通常より1時間、時刻を早めている。お陰でなにかと手違いが出てくる。その一番は、ふつうの店は、午後1時で閉めてしまうこと。(但し、レストランは別。しかしピザは午後7時頃からでないと売っていない)。だから買い物には注意が必要。うっかりしていると、買いたいものが手に入らぬことも。

 イタリア国内の道路事情は、ドイツ等に比して格段に落ち、日本のそれに近い。一級国道でも分離帯はなく、舗装の状態もよくない。
 午後3時、ボルツアーノ(Bolzano)着。ドロミテアルプスも終わり、層雲峡のような周りが絶壁で空はるか高く、見上げないと見えないくらい。道路は急降下するような斜度。
 ボルツアーノは、ひっそりとした中世風の古いたたずまいを残す街。今日8月15日はキリストの処女受胎日(?)で、休日のもよう。レモネードを飲んで一息つき、宿探し。頭が突っ返そうな屋根裏部屋だが運よく見つかる。その分、宿代も安く1800L(900円)。部屋は清潔で、数日ぶりに風呂に入る。
 下着も取替えさっぱりとした。
 夕食は、ヌードル、ステーキ、サラダ、パン、ワイン、ビールのご馳走。今日はよく眠れそうだ

ドイツ語を話す町、ボルツァーノ
フィレンツェから北に約3時間。9時35分発のユーロスターに乗って、13時前に到着したのがボルツァーノ。東アルプスのドロミテ麓に位置し、イタリア最北端の町の1つです。北へ80キロ行けばオーストリアで、さらに北上するとすぐドイツ国内です。
ボルツァーノは1918年までオーストリア領だったこともあり、イタリア語とドイツ語の2カ国語が公用語になっています。駅名もボルツァーノ・ボーゼン(Bolzano Bozen)と、イタリア語とドイツ語の併記、市内は銀行の看板も、香水の広告も、交通標識すら2カ国語で書かれています。地元の人もイタリア語とドイツ語を話せるバイリンガルばかり。学校ではイタリア語、家庭ではドイツ語を話す子どもも多いのだとか。

0

ヨーロッパ青春ドライブ紀行・1973(19)

8月16日(水) ボルツアーノ→ サンモリッツ   走行距離 145k

 一級国道とはいえ細い曲がりくねった道路。「太陽の谷」と呼ばれる明るい谷あいの道をスイスへと向かう。
画像
太陽の谷

 街道筋の途中の街々や行楽地、広場は、お祭り気分。露天商も出ている。フルカ峠のお祭り広場ではバザールが開かれている。軽登山靴を11.5$で買う。
画像
フルカ峠

 マレトレセンダを経て、午後2時過ぎサンモリッツ着。
眼下に青い氷河湖を抱く山の中腹にあるおしゃれな街だ。ショーウインドウも高級品を取り揃えている。Barにて110$をスイスFへ両替する。
残金は200$と6万円。一日10$の予定なので今後の行程では多少余裕がありそう。
 午後5時、街から30分ほど走ったところの小さな村で宿をとる。宿代80SF。
画像
Zimmer Frei

 夜遅くなって宿近くのレストランで赤ワインをたっぷり飲みながら、フルコースの夕食をとる。満足。
0

ヨーロッパ青春ドライブ紀行・1973(20)

8月17日(木) サンモリッツ→グリンデルワルド

あいにく今日は小雨。 昨晩は宿で快眠。
今日の目的地は、アイガー、ユングフラウ、ヴェッターホルンを眺められる観光地、グリンデルヴァルド。
 今日も昨日に続いて道幅が狭い山岳道路。おまけに霧がかかっていて、視界は10数m。前を行く車のテールランプを頼りにゆっくりと進む。道は登ったり降りたり。

 スイスの山々は、ドロミテ山群と異なり、主に結晶片岩、片麻岩からなり、山容も日本アルプスと規模こそ違え、よく似ている。親しみのある山容である。
道は、すれ違いがやっというほどの狭さ、神経を使う。
道路では二度、ヤギの群れに出会い、立ち往生。子ヤギが窓に足をかけ車内を覗きこんだ。愉快。

 街道の途中、間近にローヌ氷河に出会う。見学。
画像


 氷河の真横まで道路がついており、氷河がトンネル状にくりぬかれていて中に入ることができる。
画像


氷河の中に入る。中は青味がかった色彩で、幻想的な雰囲気。氷体はモレーンや岩片など意外少なく、氷からのみなる。
画像


 インターラーケン、午後5時着。大きな二つの湖に囲まれている町だ。グリンデルヴァルドまで数十分のところだが、宿はどこも満員のようす。町の下でキャンプすることにした。食事は、ワイン、卵焼き、ご飯、みそ汁、その他。気温が低いのに閉口するが食事をしたせいで体が暖まる。
画像
グリンデルバルト

 夕刻、西の空が夕焼けになり、アイガー北壁、ベッターホルンがほんの少し顔を出した。明日は晴れるように!
 ブリュッセルをスタートして今日で15日、走行距離は3200kになった。ハイウエイ、一般道、山岳路、街中の小道、変化に富んだ行程であった。宿もホテル、Penssion, Zimmer、キャンプとこれまたいろいろなところに泊まった。それぞれによいところがあり、ヨーロッパの自動車旅行は快適の一語に尽きる。
 今日は街道の途中で、今回のYHの旅行で、バスで各地を回っているグループに出会う。窓から手を振ってくれた。うれしかったな。やはり同胞、街中で会うとヤーと互いに手を上げる
0

ヨーロッパ青春ドライブ紀行・1973(21)

8月18日(金)  グリンデルヴァルト→ベルン 走行距離252k

 残念ながら小雨模様。視界もきかず。今日はひとまずここを離れることにした。
 スイスの首都、ベルン着。
買い物をした。親父への土産としてオメガの腕時計。約2万円。それとテーブルクロスを購入。
画像
オメガ社製の時計(父への土産)約2万円。
追)オメガの時計といえば当時の日本の男にとっては憧れの時計であった。父は喜んでいた。

 夕方になってから頭痛がする。風邪をひいてしまったか。昨日の冷えと疲れがでてきたのかもしれない。ホテルで薬を飲み、早めに就寝した。

*ベルンは、スイス連邦の首都。 ベルン州の州都でもある。人口は129,265人で、チューリッヒ、バーゼル、ジュネーヴに次ぐ4番目の規模の都市である。街の語源は熊。市の紋章にもなっている。スイス連邦議会議事堂の所在地であるほか、万国郵便連合などの国際機関も置かれている。ドイツ語圏に属する。

ヨーロッパ青春ドライブ紀行・1973(22)

8月19日(土)   ベルン→シャモニー   走行距離73k

 薬が効いたのか、頭痛はとれた。ホテルといっても名ばかりの小さな宿を、午前9時に出て、シャモニーへ向かう。天気は相変わらずよくない。途中で小学生からなる団体バスに追いつく。陽気な子どもたちだ。
 午前10時30分、シャモニー着。
画像
モンブラン初登頂者パルマとソシュールの銅像

道路端に車を止め、世界一高い高所・エギュードミデイ(3842m)まで行くというケーブルに乗る。かなり寒い陽気であるもの全て着て乗り込んだ。終点のエギュードミディまで往復30F(1800円)。中間駅で乗り換える。
画像
エギュードミニへのケーブル乗り場

 ケーブルの規模は大変大きく、一つの箱にゆうに50人が乗れるほどの大きさ。ケーブルの勾配も大変急で、斜度は30度もあろうか。辺りは霧に包まれているがガスの切れ目から目前に迫る岩肌が下へ下へと流れ去っていく。中間駅の気温は0度。標高は2500m。シャモニーの町がはるか下に見える。
画像


 中間駅からのケーブルは、それまでのものに比して半分ほどの大きさ。いよいよエギュードミディに向かう。視界は全くきかない。
 終点は氷点下の銀世界。しかし視界がきかないので高所の実感がない。あるとすれば軽い高山病か頭痛で頭がグラグラすることか。休憩所でコーヒーを飲みながら待つこと約2時間。霧の切れ目が数回あったが、モンブランは見えず。シャモニーの町がかすかに見える程度。気温はマイナス5度。風も冷たく残念ながら下へ降りることにした。
画像
エギュードミディ駅

 シャモニーの街は有名観光地らしく、観光客や登山客、避暑客でごったがえしている。日本人の姿も多い。 簡単な昼食(ホッドドッグ、フランス風お好み焼き:中味はジャム)をとり、さらに車で30分ほどのArgentine へ。Zimmer らしき宿がないので、ホテルへ。一人19F。(1200円弱)。デラックスな設備ないが、ふつうに泊まるだけなら、こちらでは格安のホテルがけっこうある。こちらのホテルは空き室があれば、飛び込みでも歓迎してくれる。ホテルの従業員も洗練され、丁寧に対応してくれる。日本でよく聞く話だがフランス人は話せても英語はしゃべらないというのは、ホテルに関しては嘘。きちんと話し、聞いてくれる。それから観光地では英語も可。市民のなかには、しゃべれない、しゃべらない人はいるかもしれない。
 夕食はフルコースをとる。値段が気になるが、それはそれでまた明日の話。

ヨーロッパ青春ドライブ紀行・1973(23)

8月20日(日)  シャモニー→アオスタ(イタリア)→シャモニー

 天気は相変わらずよくない。岩パパの提案で、モンブラントンネルをくぐりイタリー側へ行ってみよう、山脈の向こうのイタリア側は天気がいいかも知れないからという。さっそくその案をいただくことに。
画像
アオスタへのルート

 モンブラントンネルは、自動車専用のトンネルで、距離はなんと11.6kもある。簡単にフランスからイタリー側へ行くことができる。
画像


 トンネルを潜り抜けたら、岩パパの予感が当たり、イアタリー側は晴天。目の前に、モンブラン山群の岩山が雪を被っているのが望める。その神々しい姿に感動した。その隣にはあのグランドジョラスが・・・。
画像
アオスタ(イタリー)側からアルプスを望む

 麓の町アオスタで20$をL.に変えてもらう。グランドジョラスが見晴らせる丘の草原に横になる。陽があたりなんとも心地よい。
画像
アオスタからモンブランを越え、シャモニー(フランス)へ至るケーブル

 岩パパはそこからケーブルに乗り、モンブラン越え。シャモニーヘ戻るという。
我々3人はそのまま車でAosta, Matigny(スイス)を経由して、山道を辿りシャモニーヘもどることにする。

ヨーロッパ青春ドライブ紀行・1973(24)

8月21日(月)   シャモニー→ツエルマット

 順調な旅足で、セント・ニコラスに到着。駅前にある巨大な駐車場に車を入れる。ここから先、ツエルマットへは車は使えず、登山電車を使うことが決まりである。
 ツエルマットが間近になった時、窓の外にマッターホルンが見え始めた。写真では何度も見てきたが、実物を目の当たりにすると感無量になる。

 ツエルマットの町は谷あいにある小さな街だが、車は電気自動車以外なく、交通はもっぱら徒歩か、馬車を使う。街中にはホテルが林立しているが高さ制限があるようでいずれも5階建てである。デザインにはあまり個性はない。これも壁の色や屋根等規制されているためか。
画像
ツエルマットの街

 街から見えるマッターホルンは、南面と東面が見え、その稜線が真正面が見える。南面はカンナで削ったようにツルツル、雪の付きはない。上部にいくに従って斜面の傾きは大きくなり、最上部付近はオーバーハング気味である。東面は南面に比して雪の付きがよい。
 ツエルマットから眺めるマッターホルンの姿は、人の顔と同じく、真正面より斜め横からの姿が眺められ大変美しい。
画像


 宿はどこも満室でかつ高いが、幸い保育園らしき建物を活用したZimmer があったのでそこを使うことにした。一泊、10F。

 荷を解いて、早速登山電車でゴルナーグラートへ向かう。往復30F。約30分でゴルナーグラートの展望台に着く。アプト式の登山電車でかなりの勾配をゆっくりと上っていく。はるか下にツエルマットの街が箱庭のように見える。
画像

 登るにつれ視界はひろがり、マッターホルン、モンテローザ、ドーム、その他の雪を抱いた高山が見渡せるようになる。絶景だ。
画像
終点ゴルナーグラート駅
 終点はゴルナーグラート、標高はなんと3200m。到着時刻が午後3時ちかかったので、マッターホルンは逆光の中にあり、空に溶け込んでいるよう。

 モンテローザは午後の光を受け、堂々たる山容を誇っている。モンテローザの左斜面には大きな氷河、ゴルナー氷河がモレーンをいく筋も保ちながら流れ下っている。スゴイ!スゴイ!
画像

ゴルナー氷河

 この所での展望は文字通り360度の大パロラマで、いつまで見ていても飽きない。幸い午後遅い光を受け、山々に陰影がで壮大、迫力満点、圧巻である。
 熱気球、ジェット機が時折、余興のように目前を横切っていく。

 
 街へ降りる登山電車の最終時刻は午後7時。ぎりぎりまで粘ってこの地でゆっくりと過ごすことにする。持ってきたカメラの標準レンズ(55m)では用をなさない。

 西に陽が沈みかける寸前、午後7時。野生のカモシカが目の前にやってきて旅情をそそる。
名残を惜しみながら黒いシルエットになりつつあるマッターホルンを左手に仰ぎ見ながら、電車に乗る。
ツエルマットの街で遅い夕食をとり、宿に戻る。午後10時就寝。
手続きの誤りで、ベッドは二つしかとれず、一つのベッドに二人で寝ることになった。お陰で少し睡眠不足になった。

ヨーロッパ青春ドライブ紀行・1973(25)

8月22日(火) ツエルマット→インターラーケン

 ツエルマットの街を午前10時45分発の電車に乗る。セントニクラウス11時20分着。車を再び駆り、インターラーケンに向かう。天気がよければ再びグリンデルヴァルトに寄り、グランドジョラスの北壁を望もうという魂胆。Furuka峠を目指す。峠から先はこの前と同じ道を通る。
画像
フルカ峠

 旅もフィナーレに近づいてきた。インターラーケンで夕・朝食付きのホテル(38SF)に宿泊。
 心はもうパリへ、東京へ。

ヨーロッパ青春ドライブ紀行・1973(26)

8月23日(水) インターラーケン→Dijon(フランス)

 あいにくの曇り空。グリンデルヴァルトは残念だが諦め、パリへ直行することにする。
午前中はインターラーケンでショッピング。小生はテーブルクロス(44.5SF)とネックレス(9金、140SF)の買い物。これで手持ちのお金は、95$と5万ほどに。
 インターラーケンの街よさようなら、スイスよさようなら。

 今日中にパリへ着くのは無理なので途中の街で一泊の予定。パリへのルートは幹線だが道幅は狭い。車は少なく、100k/hで走ることができる。道は小高い丘の稜線上を走っており、、ゆるやかな上り降りを繰り返す。有氏曰く、サーフィンストラーセ。
 午後4時、フランスとの国境に至る。
 パスポートを見せれば簡単に通過できると思いきや、そうならず。警官がパスポートを見せろというので従い、スタンプを押してくれと言ったら“ウイ”まではよかったが、その後、フランス語でなにかと問いかけてくる。ちんぷんかんぷん。
 何も分からず、互いに(?)トンチンカンなことをヤリトリすること30分。その間、警官はどこかに電話をして問い合わせている。例の赤軍派が日本を出国しているので、怪しまれたのかもしれない。幸い、それ以上の追求はなく、無事フランスに入る。

 パリへの街道筋は大きなポプラ、プラタナスなどがガードレール代わりに植えてあり、樹木のトンネルをくぐる美しく気持ちよいドライブとなった。夕焼けと緑のなかの道。

 午後6時、Dijon着。二つ星のHotel St.Bernaldに投宿。朝食付き1200円。夕食は近くのレストランでとる。
フランス語が全くだめなので、黒人のコックさんを介してやっとメニューが決まった。鰯のオイル漬け、チキンのから揚げ、ポテト、パン、コーヒーで800円。おいしかった。
フランすは、大都会ではともかく地方では英語が通じないというのは本当だった。

ヨーロッパ青春ドライブ紀行・1973(27)

8月24日(木) Dijon → パリ

 Dijon発10時。今日はいよいよパリ入り、ドライブ最後の日となる。気を付けていこう。
午後2時、パリ市内に入る。さすがに大都会、3週間近くドライブしてきたが、これほど車の多い都市はなかった。セーヌ河を渡り、コンコルド広場経由、シャンゼリゼ(Les champs Elysées →仏語のつづりでは、シャンゼリゼとは読めない)通りへ出る。

画像

シャンゼリゼ通り

 日航のパリ支店を見つけ出し、ホテルの紹介を依頼するも、最低で80~90F。値段を聞いて余りにも高いのでびっくりした。しかも幸か不幸か、どこも満員とのこと。
 結局、自分たちで探すことにした。レンタカーをハーツのパリ営業所で返却。歩いてシャンゼリゼ通りの裏道へ。ホテルの看板を探してキョロキョロする。幸いのもすぐ見つかった。
 フランスのホテルは星の数でランク付けされているが我々の泊まるのは、せいぜい星二つまで。
 部屋は屋根裏にある、天窓から光がさし、明るい。ベッドはダブルで二人部屋、朝食付きで一人27F(27×60円で1620円)の格安ホテル。経営者の態度も明るくなにかと面倒をみてくれる、よい雰囲気。部屋は狭いが、集合日までの三日間、ここにお世話になることにした。

8月25日(金)~27日(日)  パリ市内めぐり

 見学箇所 ルーブル美術館、ルクサンブルグ公園、モンマルトル等
 
 二日間とも朝、宿を出て、夜遅くまで歩いて市内を巡る。愉快な二日間。
 モンマルトルで画を買う。約5000円。
画像
モンマルトル広場

 
8月28日(月) パリ郊外のユース泊
 午前8時過ぎ、タクシーで郊外のユースへ向かう。30分ほどで到着。全員無事集合。

8月29日(火)
 空路、東京へ。午前、無事羽田着。解散。



後記

 40年前、思いがけないきっかけで、ヨーロッパ旅行が実現した。
 1$が360円の固定制が撤廃され自由化されたのが私たちがこの旅行をする前の年、1972年でした。
 撤廃後対ドル円は徐々に高くなりましたが、私たちががこの旅行した際は、1ドル=約290円でした。
 団体でかなり安くなったとはいえ、往復の航空機に約10万円、レンタカー代は一人あたり約5万円、宿泊費、小遣い代等で約5万円、計20万円強ほどかかった事を記憶しています。

 今から見れば、私たちの旅行ルートは、文字通り点から点を結ぶもので表面的にしか見てきませんでしたが、自動車を使ったとはいえ、全て自分たちの意思で行動しました。

 この旅行は、まえがきにも書きましたが、同僚2人と、その一人の父上、計4名のグループでした。父上にとっては全日程車、しかも長距離移動がしばしばという厳しい条件でしたが、その方は大の旅好きで、長旅もものともしない気迫をおもちでした。
 私にとってはなにより気心知れた仲間との旅行ですので楽しかった以外、なにも言葉が浮かびません。その喜びは今でこそ薄れてきましたが、40年間、私の心の中でほのかな灯火として燃え続けてきました。
 なんといってもヨーロッパの先進性にはただただ驚くことばかりでした。
 

東日本大震災復興支援ツアー

13/7/6(土)~7(日)、一泊二日で、東日本大震災復興支援ツアーに参加しました。
 初日は岩手県一関まで新幹線、一関からツアーバス、陸前高田、気仙沼を巡って花巻まで。
二日目は、花巻からバスで平泉経由一関までが行程です。


 
画像

  東京を7時過ぎ、盛岡行きに乗りました。


画像

乗車券はジパングに入っているので、乗車券、特急券とも30%引き。助かります。


画像

午前9時半過ぎ、一関着。10時発の支援バスに乗り込みました。岩手交通の大型バス、乗客は総勢19名です。バスには、今日の行程が貼られていました。


画像

JR気仙沼線が大きく北へ迂回してやっと千厩(せんまや)付近で国道沿いに戻ってきました。


画像

JR気仙沼線は、一関から気仙沼までは今回の震災被害は軽微で、在来線の列車が運行されています。しかしその先の海岸沿いを通る線路は津波による被害が甚大で、今だ復旧の見通しはたっていません。その間は、この代替バス(BRT)が運行されています。


画像

いよいよ陸前高田市内に入ってきました。この辺りは標高が高いところです。


画像

いよいよ大津波が押し寄せた地域に入ってきました。ガレキはきれいに片付けられています。


画像

仮設店舗が点在していました。


画像

大船渡港です。港に接する地域の建物は跡形もありません。土台を残すのみです。


画像

道路に引いてある白線は震災前のものだそうです。


画像

陸に打ち上げられた漁船(第十八共徳丸)が見えてきました。保存か解体か意見が分かれていたようですが、解体されることになったそうです。被災者の気持ちは複雑なようです。


画像

同上

画像

延々と続く被災地域


画像

仮設店舗


画像

高台住宅地造成地

画像

仮設住宅


画像

海岸に流れ込む河川の河口に立地する陸前高田市立気仙中学校。津波に呑み込まれたが、生徒・教職員全員が事前に近くの高台に避難、事なきを得たという。校長は、他所(内陸部)から着任者だという。津波に対する慣れがなかったのが幸いしたという。津波への恐怖感が校長をして迅速な避難につながったのでは。一方では、津波(警報)に慣れてしまったのが災いし、多くの児童・生徒・教職員を失った学校もあった。


画像

同上

画像

同上(グーグルアースによる)

画像

同上(この中学校は、遺構として保存する話があるとのこと)


画像

ガレキが一部残っているところも。

画像

陸前高田の海岸防砂林でただ一本残った松。(レプリカ)

画像

海岸近くにある陸前高田、道の駅。


画像

同上

画像

道の駅前にある献花台

画像

道の駅から内陸部を臨む。この地域一帯は商店や一般家屋が軒を連ねていたという。陸前高田駅もここから数100mほどのところにあった。線路と駅前広場の痕跡が残っている。


画像

気仙沼線陸前高田駅付近に残されたレール


画像

残った三階立てのビル。屋上に、津波が襲った高さが、赤ペンキで示されていた。


画像

陸前高田駅前からかつての商店街方面を臨む。なにもない。

画像

ボランティアのガイドさんが、被災前の様子の写真と比較してくれた。甚だしい喪失感。


画像

かつての駅前ロータリー。駐車枠の白ペンキと、駅から伸びる商店街の道路が伸びている。


画像

海岸近くでは地盤沈下も甚だしい。

画像

被災したマンション。コンクリート造りだから建物は残った。四階までの部屋のガラス戸は全て割れている。5階部分は無傷と津波の高さが歴然と残された。

鎌倉アジサイ紀行(2013.6.8)

鎌倉アジサイ紀行(2013.6.8)

 鎌倉の諸寺社でアジサイが見ごろのようなので、出かけてみました。今日は土曜日なので、混み合う前にと午前6時過ぎと、早めに家を出ました。
 この六月から、最寄り駅である田園都市線青葉台駅から、小田急、江ノ島電鉄の一日フリ-切符(1220円)が発売されたので早速使ってみました。
画像


中央林間で小田急江ノ島行きに乗り換え、藤沢駅へ。藤沢から江ノ電鎌倉行きに乗りました。
江ノ電始発駅のホームです。
画像


江ノ電は全線単線です。東京近郊の私鉄にしては珍しいですね。
画像


極楽寺駅で下車、今日の散策コースに入りました。
画像


極楽寺駅前です。なんとも雰囲気のある駅ですね。
画像


極楽寺です。
画像


お寺の由来
画像


跨線橋から極楽寺駅を撮ってみました。
画像


成就院門前です。開門は午前八時から。すでに待っている人がいました。
画像


成就院のアジサイと由比ガ浜の眺め。成就院は高台にありますので見晴らしがいいです。
画像


御霊神社の前を走る江ノ電。ラッピング車のようです。
画像


長谷寺です
画像


長谷寺境内のアジサイ。本数といい、種類といい、色とりどりのアジサイが咲き誇っていました。
画像


高台にあるお寺から見た由比ガ浜です。ここで朝食兼昼食(コンビニおにぎり3ケ)。トンビが狙っているとの注意看板が。

画像

画像


こんなにいろとりどりのアジサイを見たのは初めてです。
画像


お遍路さんがいました。
画像


長谷寺は崖の上にあるので、境内は湧き水が豊富です。
画像


崖を掘ってお参り所がありました。
画像


長谷寺の門前の土産屋。「セールスお断り、当方金欠病」が傑作ですね。
画像


鎌倉市内の名所を巡る定期観光バスのようです。きれいですね。
画像


鎌倉の大仏さんは、昔見たので入り口でUターン。拝観料を払わないと、外からは全体像は見えないようになっています。商売上手な大仏さん。
画像


鎌倉文学館へ向かう途中の路地。百合がきれいでした。
画像


民家の塀沿いのバラもきれいでしたよ。
画像


長谷寺に向かう途中にある甘縄神社。人力車がよく似合いますね。
画像


甘縄神社の前にある川端康成氏が住まわれていた家です。公開はされていません。
画像


近くに山口瞳氏の住まわれていた家もありました。
画像


トンネルをくぐって文学館へ。うっそうと繁る緑のなか、天然石の石畳の道がすばらしい。
画像


文学館の全景です。
画像


鎌倉文学館は鎌倉にゆかりのある小説家の、直筆の原稿や写真を展示しています。今は、太宰治特別展です。館内は撮影禁止ですが、唯一、2階のテラスから由比ガ浜を撮影できました。建物は前田家の別荘だったようです。
画像


文学館の前庭の一部は見事なバラ園になっていました。
画像


見事なバラが咲いています。
画像

画像


今日の鎌倉紀行はこれで終わり。江ノ電由比ガ浜で乗車。藤沢、中央林間を経て、午後1時過ぎには青葉台の自宅に戻りました。充実した散歩でした。
画像





まごまごだより

青葉太郎の”まごまご”だより

画像



2013/5/5 京都より
 今日も近場で過ごしてます。今日は北の方までサイクリングに。帰り道の鴨川で石渡りしをしてます。
緑のがS太郎。なぜかお尻までぬれちゃってるみたい。グレーがM子です。座ってます。
 連休だからか、鴨川はあちこちで宴会のような集まりがあるよ。
画像



2013/5/1  アメリカ・テネシー州ジャクソンより

 こんにちは
 最近は初夏のような気温になってきたTN州です
やっとこちらは5月になったばかりなのに、日焼け止めが欠かせません
 もう数週間前になりますが、この日もと~っても良いお天気で、休日にだんなさんも同僚の方々と一泊旅行に行ってしまったため、私と息子でアメリカ人のお友達にお呼ばれして、おでかけしてきました~
 お呼ばれとは言っても、『人がいっぱい来るから、子供も遊べるし、おいで~』という軽~い集まりです
 タイトルの通り、日本人は私たちだけ・・・ あと数十人はアメリカ人という環境・・・ ちょっぴりドキドキもしながら、参加してきました

画像

広~いお庭には、このバルーンで造られた大きな滑り台が2台
ちなみに、子供は総勢30人~40人大集合。 ここ、個人のお宅のお庭なんですよ

画像

お庭には小川があり、橋も掛けられていて、向かい側にもまだまだ続く広大なお庭・・・
息子はなぜか橋が大好き この橋を何十往復したことか・・・笑


画像

午前中からひととおり遊んだ後は、ここのお家のだんな様がひたすら焼いていたBBQランチ 
ホットドックかハンバーガーをチョイス

画像

私はハンバーガーをチョイス~~


 みんな思い思いの場所で頂きました お庭にはテーブルとイスが数セットあり、もう“お庭” というよりは、むしろ “公園” と言ったほうがよいかもしれません・・・
日本の都会にあるちょっとした公園よりも、広い さすが、アメリカ、土地が余ってるだけあります(笑)
 午前中から遊びまくった私たち、本当に充実した一日を過ごすことができました
これから、ますます良いお天気が続き、BBQ日和 楽しみ~~~。
0

みなとみらい地区

平成25年度の読売日本交響楽団の会員(みなとみらいホリデー名曲シリーズ)に入会しました。会場は横浜のみなとみらいホールで、来年3月にかけて計8回の公演があります。
   第1回 4/27(土)
      指揮 尾高忠明  ピアノ 北村朋幹
           ドボルザーク 序曲「謝肉祭」
           モーツアルト  ピアノ協奏曲第23番
           ドボルザーク 交響曲第9番「新世界から」

画像
みなとみらい地域へはJR,横浜市営地下鉄ブルーライン、東横線(みなとみらい線)と三つのアクセス手段がありますが、私の場合は市営地下鉄で桜木町まで行きます。駅前の様子です。

画像
みなとみらいホールへは、動く歩道(ランドマーク内)を利用する他に海沿いの道があります。往きは動く歩道、帰りは海沿いの道を利用しました。

画像
動く歩道からの眺めです。帆船日本丸が間近に見えます。

画像
 少女たちもこの風景を楽しんでいました。


画像
  みなとみらいホール
  私の席から撮ってみました。(無論、演奏中は撮影禁止)

画像
 演奏間近、お客さんもだいぶ入ってきました。




念願のアメリカ旅行(2013.3.28~4.8)

念願のアメリカ旅行
画像


私ども夫婦は、2013.3.28~4.8の12日間、アメリカ旅行に行ってきました。

 念願のグラウンドサークル巡りと、娘の家(テネシー州ジャクソン)への訪問です。娘家族とはフェニックスで落ち合って、グランドサークルを五日間かけて見物する予定で娘の夫君にレンタカーで案内をお願いしました。

 その後ラスベガスに寄って空路メンフィスへ、そして車で1時間半ほどの娘の家へという行程です。

 往きはロスアンゼルス、帰りはアトランタ(帰国時、変更してミネアポリス)を経由しますので乗継ぎがやや不安でしたが、同じ航空会社(デルタ)でしたのでスムーズにいきました。

旅行は大人4人と孫(2歳・男)の5人。
 娘夫婦が事前に綿密な計画を立ててくれたのと、娘の夫君の語学力のお陰でなんの支障もなく楽しい日程を過ごしました。


画像

    グランドサークル(The Grand Circle)

アメリカ西部のユタ州とアリゾナ州の境目にあるレイクパウエルを中心に半径230kmの円を描いた時にその円の中に含まれるエリアのことである。
この円の中には、10の国立公園と30以上の国定公園、州立公園、モニュメントなどが含まれており、巨大な自然の宝庫と言っても過言ではない。

画像



画像
3/28 二日目   いよいよフェニックスを出発。どの国でも古い車に乗り楽しんでいる人がいるようで。アメリカでも30年、40年前の車が走っています。ちなみに車検制度はないそうです。

画像

  ホテルを早出したのでファーストフード店で朝食。このようなお店にはずいぶんお世話になりました。

画像

         セドナへやって来ました。

画像

セドナ(先住民の聖地。現在はパワースポット、観光地として人気が高い)

画像

    先住民を祖先とする住民の土産物屋(セドナにて)

画像

    展示物(セドナにて)

画像
3/29 3日目 グランドキャニオンへの道

画像

   ファーストフード店にて(トレイに自由に入れて8$)



画像

グランドキャニオン・ゲート

画像

夕日に映えるグランドキャニオン

画像

キャニオンの見晴らしポイント


画像

  朝日を受けるグランドキャニオン


モニュメント・バレー(Monument Valley)は、アメリカ合衆国西南部のユタ州南部からアリゾナ州北部にかけて広がる地域一帯の名称である。
メサといわれるテーブル形の台地や、さらに浸食が進んだビュートといわれる岩山が点在し、あたかも記念碑(モニュメント)が並んでいるような景観を示していることからこの名がついた。
古くからのナバホ族居住地域で、居留地となった現在では、その一部はナバホ族管轄のもと一般に開放する形で公開されており、ナバホ族の聖地とも呼ばれ有名な観光地となっている。

画像

モニュメントバレーへ(途上にナバホ族が営む土産物店)

画像

  モニュメントバレー到着

画像

 展望台前にて

画像

  夕日を受けるモニュメントバレー

画像

モニュメントバレーパノノラマ

3/30(4日目) アンテロープキャニオンへ
 ナバホの言葉でツェー・ビガニリニ(Tse bighanilini)「水が岩を流れる場所」という意味のアンテロープ・キャニオン。
 アンテロープ・キャニオンは他のスロット・キャニオンと同じく、もともとはロッキー山脈が隆起してきた際に出来たコロラド台地の一部で、一時的に(地質史的に)隆起した台地を流れていく水が、柔らかい砂岩を侵食して出来たものである。

画像

    アンテロープ入り口

画像

    洞窟内

画像


画像

     同上

画像

ザイオン国立公園への道

ザイオン国立公園
  アメリカ大西部の景勝地としては、グランドキャニオンと双璧をなす有名な国立公園。
 ラスベガスから車で行けるザイオンは、グランドキャニオンよりもかなり近いが、なぜか日本人の間ではあまり知られていない。
 日本以外の国 (特にヨーロッパ) からは、ロッククライマー、キャンパー、トレッカー、サイクリスト、バードウォチャーなど、一年を通じて多数の観光客が訪れており、近年は国立公園管理当局が車両の流入制限をするようになるなど (主に夏期)、その人気ぶりはグランドキャニオンに勝るとも劣らない。
 もちろん人気だけでなくその景観もすばらしく、想像をはるかに超える巨大な絶壁の数々、垂直に切り立つ主峰 The Great White Throne、何億年もの時の流れを感じさせる清流 Virgin River、草原でのどかに草を食むシカの親子、命知らずの ロッククライマー など、すべてがここでは主役で、それぞれがザイオン国立公園というステージを見事に盛り上げ演出している。

画像

  ザイオン国立公園

画像

ザイオン国立公園

画像
3/31 5日目
ラスベガスへ向かう

画像

  ラスベガスにやってきました

画像

  ラスベガス市内の賑わい

画像

  人気の噴水ショー


 五日間をかけてのグランドサークル観光も無事終え、私たち一同は、娘家族が住むテネシー州ジャクソンに向かいました。ラスベガスからメンフィスまで約3時間の空の旅でした。
 メンフィスから車で約い一時間半で、娘夫婦の家(ジャクソン)に着きます。

画像
4/1~4/7  娘夫婦のアパートからエントランス眺めた風景。前に写っている家と同じ作りのアパーメントです。

 娘夫婦の家では五日間、滞在しました。その間、孫(男・2歳)相手に遊んだり、スーパーマーケットに出かけたり、公園に行ってりしてアメリカの日常生活を楽しみました。
 とにかく国土の広い国ですから、施設はすべてに余裕があります。住居もしかり、スーパーも平屋建てでまるで倉庫のようにだだっ広い。物資が山のように詰まれており、おおきなカートで買い物をします。値段は肉類はやはり圧倒的に安い。ただ日本のように細切れはなく、大きな塊で売っています。野菜類の価格は日本とあまりかわりありません。
 買い物にしても公園にいくにしても、いづれも車を利用します。(日本のように歩いていける距離にはありません。)

画像
孫のもっぱらの遊びはプラーレール

 帰国前日の日、メンフィスに行ってきました。メンフィスはテネシー州の州都ナッシュビルより賑やかな市のようです。
 目的は、エルビス・プレスリーの住居や墓地や、キング牧師が暗殺されたモーテル,ブルース発祥の地ビール街等の見学です。見所満載のメンフィス市です。

画像
>プレスリーが住んでいた家です。グレイスタウンにあります。

画像
プレスリー家の居間です。

画像
プレスリーの墓地です。


画像
お墓の周りは人でいっぱい。

キング牧師はメンフィスで暗殺されました。市内の質素なモーテルに宿泊、通路(外側)に出た時撃たれたそうです。

画像
道路側から見た暗殺現場。花輪があるところがそこです。

画像
現場の通路へ上がることができます。

画像
メンフィス随一の繁華街:ビール街。ブルース発祥の地です。BBキングのお店もあります。

画像
正体不明のKARAOKE店がありました。

画像
メンフィスはミシシッピーの中流域にある町です。綿花の積み下ろし、奴隷貿易で栄えた街です。河を渡ってみました。中流域なので幅の広さはあまりありません。

4月8日、メンフィスまで送ってもらい、ミネアポリス経由で帰国の途につきました。成田へのコースは昼間をずーっと飛びます。アラスカの上空を通りましたので氷原の景色を堪能しました。
画像

 この年になってよき思い出を作ってくれた娘家族、特に夫君に感謝します。(13/4/30)

横浜市都筑区せせらぎ緑道

10月27日(土) 横浜市青葉区の団体が計画した横浜市都筑区せせらぎ緑道のウオーキング参加しました。
都筑区は近代的な都市計画が進められ、住居と緑が調和した都市空間が形作られています。
 大きな公園が多数あり、その公園が緑道で結ばれています。
 天気もよく快適な歩きができました。約12k、歩数は27000歩でした。

画像


画像


画像


画像


画像
0

蓼科、白樺湖、車山高原

 紅葉には少し早かったのですが、長野県蓼科、白樺湖、車山高原に10月13・14日、一泊二日の旅行に行って来ました。
 幸い天候に恵まれ快適な旅でした。特に車山高原では四方360度の眺望に恵まれ、遠く富士山、北・中央・南アルスプス、目の前には八ヶ岳連峰が望めました。


画像


画像


画像


<
画像

祇園祭

7月15日~17日にかけて、娘(京都在住)の所へ祇園祭を見に行って来ました。
宵々山、宵山、巡行と三日間、たっぷりと見ることができました。
 宵山では鉾の上に上って、稚児さんの目線を体験できました。
巡行はハイライトだけあって、見応えがありました。炎天下の3時間でしたが、
次から次へと繰り出してくる山と鉾が見事でした。
さすが数百年も続く伝統行事の重さは違うなと思いました。



画像


画像


画像


画像


画像


画像


画像


画像


画像


画像


画像

0

夏の花

七月になって、夏の花々が咲き始めました。芙蓉は近所で、ヒマワリとユリは我が家で咲きました。
暑い最中、咲き誇っている花を眺めると一時、暑さを忘れます。

画像

画像

画像

横浜散策

所用で久しぶりに横浜市街に出かけました。未明に台風4号で大雨が降りましたが、天気は急速に回復、青空も出て、真夏日に近い気温でした。
 横浜公園跡(横浜球場)、日本大通り、馬車道、日本大通り、中華街を歩きました、。

画像

画像

画像

画像

画像

画像

画像

画像
0

カルガモ一家

カルガモ一家
 近くの公園の池にカルガモ一家(父親不在)がお目見えしました。
 池の近くの茂みの中に巣があると思われます。
 卵が孵化当時は9羽のヒナがいましたが、6月11日現在、4羽になって
しまいました。どうやらカラスにやられたようです。
 実際に、カラスがヒナを狙っている現場に遭遇しました。
カラスを追い払いましたが、子ガモにとっては厳しい環境ですね。
 一家は人が近づいても逃げようとしません。どうやら、人の近くに
いればカラスから安全だと学んだようです。
画像

画像

画像

画像

画像

画像

画像

0

青葉区JA田奈「四季菜館オープン」

 先日、青葉区JA田奈「四季菜館」がオープンしました。田園都市線田奈駅から徒歩10分ほどのところです。
もともと田奈農協事務所があった所ですが、このたび、事務所を改築、それに併せて、地域農産物を中心ととした直売所「四季菜館」をオープンさせました。
 新鮮で格安な野菜はむろん、花類、全国のAコープの商品、農機具等をあつかっています。
 野菜はさすが1級品、新鮮かつ安いです。たっぷりと買い込みました。店に行ったのが昼過ぎだったので、何種類かの野菜は売りきれていました。
 定休日は月曜日、開店は午前10時です。駐車場スペースもたっぷりあります。

画像

画像

Aコープ扱いのコーナーです。
画像

農機具等のコーナー
画像

珍しい農作業用地下タビも売っていました。
画像

各種野菜です。
画像

画像

画像

画像

画像

画像

肉も地元産の肉と手作りの加工品を扱っていました。
画像

田奈名物のウドン(乾)がありました。人気があるそうです。
画像

青葉区は花の栽培も盛んです。元気のいい苗がありました。私は黄白色のペチュニアを3ツ買いました。
画像

画像